ベッドからの社会参加

 身体障害者の社会参加と言っても、その立場や置かれている環境によって様々であろう。それは、人それぞれの障害が千差万別であるように。障害者の社会との関わりには、ひとつの型には収められないものがある。一括りに障害者だと言っても。一般社会に生活の場を置き、活躍している人があり。その逆に、一般社会から離れて生活せざるを得ない人があり。そこには社会との距離が介在しているもの。その距離によって、社会とのつながりの型は違ってくるものだ。
 しかし、その社会とのつながりの濃度は。必ずしも、その距離に比例するものであるとは言い切れ無い。例え施設のベッドに居るとしても、社会との強いつながりを手にする事はできるものだ。
 私は現在寝たきりと言う重度の障害にある。実社会との距離と考えるならば、その隔たりは大きなものだろう。とはいえ、そういう環境でありながらも。私には社会に於ける多くの友人知人があり、良好な影響を掛け合っている。それは、つまり。社会に私の存在し得る場があると言う事ではないだろうか。
 では、私はどうやって社会とのつながりを持っているのか。ベッド生活であるにも関わらず。
 それは、発展著しいネット環境のおかげだ。インターネットの社会では、誰もが平等。どんな障害を持っていても、寝たきりであったとしても、誰もがひとつの同じテーブルに着く事ができるのだ。これは有り難い事である。
 私は、四六時中ベッドの中に居る。ベッドから離れる事がほとんど無い生活を送っている。考えてみてほしい。ベッドに縛りつけられている毎日を。
 寝たきりと聞いて、果たしてどんなイメージが浮かぶだろうか。孤独、寂寞、悲哀、陰鬱。哀れみもあるだろう。恐れもあるかもしれない。そう、寝たきりのイメージは重々しく。明るさはあり得ないだろう。この環境を求める人は、決していないと思う。しかし、それが私の生活エリアなのだ。それは贖えない現実である。私はこの限られた空間で生きている。
  インターネットは、そのような環境から私を外へと連れ出してくれている。ともすると内向きになりがちな意識を、広い世界へと解き放ってくれる。インターネットは社会へ向けられた扉だ。ディスプレー画面を覗けば、そこは社会が息づく世界。私はいつでも、マウスひとつで社会へとダイブする。なんと素晴らしい事か。寝たきりの私でも、弄せず社会へ参加ができるのだ。
 社会とは何か。それは人と人とのつながりだと思う。そこから生まれたコミュニティーが、社会の根幹にあると。
 私はインターネットを通して、多くの人々と出会い。コミュニティーの輪は広がるばかりだ。友情の花を咲かせ、信頼の実をつけて。 本当に多くの出会いが続いている。
 入院という環境で長く暮らしていると、自分の周りの事しか見えなくなってしまう。まさに「井の中の蛙」だ。自分の毎日に何の疑問も持たずに生きていた。疑問を見いだせずにいたのだ。これが当然なのだと。それは社会性の乏しさを露呈しているのだといえよう。しかし、多くの交流の中で、様々な疑問が見えてきたのだ。「自分の暮らしに疑問をもつ」。これも社会参加のひとつだと思う。また、自分自身を見つめる客観的な目も鍛えられている。今私は自分の求める社会像を持ち。将来の展望を見つめている。
 私が求める社会。それは、例えどんなに重度の障害を持っていても、自分の意志で自由に参加できる社会。重度障害者が社会参加するための、しっかりとしたサポートを得られる社会だ。
 私は、外出支援を含めたボランティアを求めている。この発想自体、これまでは無かったものである。そのような思いを強くしたのも、ネット社会での出会いがあったからこそ。社会に触れるきっかけを得たおかげだ。
 殊に同年代の社会人との交流に於いては。その考え、想い、悩みを共有する事によって。私の心は厚みが増しているように思う。様々な人々との交流は、私の思考に絶妙な刺激を与え続けてくれている。思考を成長させる、心の栄養源と言えるだろう。
 私には社会性が乏しかった。やはり「井の中の蛙」。社会、そして社会人とのつながりは。私の中に社会的秩序を植えつけ、社会性を及ぼし続けてくれている。社会参加に必要な感覚を私は得られていると思う。
 以前、私の中には社会に対しての妙な劣等感があった。それは全て社会性の欠如の為だ。少なくとも私はそう思っていた。「自分は社会性が欠けている」と。しかし、今は違う。社会とのつながりを持ち、人々との関わりを深め。インターネットでの社会参加が、私にある種の自信と、社会人としての自覚を促してくれている。私にとって大きな進歩だ。 社会への関心を持つ。そして、自らの思いを、考えを発信する事。それが私にとっての社会参加だと思う。
 それを強く意識したのは、某代議士との面談の時だった。この面談は、私の訴えに応えてくれる形で叶ったものだ。病室の中。しかも、ベットにうずくまっている私の訴えが、社会人の代表である代議士へ届いたのだ。物理的には社会から離れた場所で生きている私ではある。しかし、確実に私も社会の一員なのだ。それを自覚出来た時、私は誇らしかった。何故ならば、そこに社会人の私がいたからである。
 インターネットの力、そこから得られる恩恵は、私にとって大きなものだ。インターネットは社会へと通じる道。パソコンは私を社会へと誘う「水先案内人」と言えるであろう。 IT革命。ネット社会。そして、テクノロジーの著しい進歩。これらは私の社会との接点を大きく広げてくれた。
 寝たきりの身であったとしても、社会参加の機会が飛躍的に増している。自身の意志次第では、いくらでも、どこまでも、社会参加が可能になっているのだ。この機をみすみす逃していては。それは、あまりにも勿体ない事ではないだろうか。積極的に活かすべきであろう。ただし、社会参加には必ず社会責任が伴うものだ。自分の発言には、責任を持たなくてはいけない。ことさら、公的発言には重い責任が請じると思うべきであろう。
 平等社会、バリアフリーの概念は、ただ障害者を受け入れるだけではいけない。障害者も、受け入れてもらうという甘い意思だけではいけないと思う。平等な権利は。すなわ 平等な責任であるのだから。
 ネット社会は、先んじて平等な社会として成長している。先にも論じたが。ネット社会では、誰もがひとつの同じテーブルに着く事ができる。インターネットに参加すると言う事は。個人の責任の下で、そのテーブルに着くと言う事になる。誰もが同じ権利と、同じ責任を有する事で、その場の存在を許されると言っても、過言ではないだろう。ネット社会にしろ、実社会にしろ。社会参加を望む限りは、障害者だからと甘えてはいけない。ましてや、責任を転嫁するのは愚の骨頂。それでは、社会人とは言えないと思う。
 責任を伴う社会参加。しかし、尻込みしていてはいけない。一人前の人間へと成長するためのチャンスなのだ。自らを伸ばすための絶好の機会なのだから。
 障害者。とりわけ私のように寝たきりの施設入所者は、何もしないでいては社会参加はあり得ない。一般的な人達は、そのまま居るだけでも、社会参加をしているが。それに比べて、私などは。積極的に貪欲に求めない限り、社会参加は望めない。ただ現状に流されるままでいては。
 重い責任を伴う社会参加ではあるが。あえて私はそこを目指す。自らを高めるために。己を磨くために。
私が与えられたチャンスを活かして。パソコンを駆って、社会を飛び回る。

06/1/9