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「生きる」を意識して過ごしている人は、果たしてどれだけいるだろうか。
生きる事は当たり前であり、生きていて当然だと思っている人は多い事だろう。しかし、考えてみてほしい。今この場に自分として存在している事を。人が生まれ、人として生きる事は、決して当たり前などでは無いのだ。
両親がいて、そのまた両親がいて。その両親たちがこの広い世界の中で出会えた事で、はじめて私たちは生を受ける事ができたのだ。それが偶然なのか必然だったのかは別にして。両親が出会い、結婚し生まれてきたのが私だ。それが如何に稀な幸運なのか、分かると思う。人が生まれ、存在しているのは。無限の空間の一点と、無限の時間の一瞬が重なったからこそなのだ。奇跡だとも言えるだろう。
また、私に流れている温かな血液。それは太古の昔から、先祖が代々、何世代にも受け継いできた「血」なのだ。我々は、いわばその血の本流から分かれた小さな流れの、その先端の僅かな一滴に過ぎない。しかし、この一滴を生み出すまでには、数えきれない障害や困難があったのだ。涸れかけた事もあったろう、否応なしに流れを変えられた事も。
その度に、祖先たちとその血は。それを乗り越えて、それに打ち勝ってきたのだ。命の火を次の世代に託すために。まさに命を賭して。重い半ばにして倒れたものは数知れず。生まれる事すらできなかった命もあったろう。多くの念を託された我々。だからこそ、流れの先端の一滴である我々は、私たちの命は、重く貴重なものなのだ。何よりも大切にされなければいけない。
では、私たちの有する心は、アイデンティティーはどうやって育ったのか。自分が自分である事の理由とは。
心や人間性は、生まれながらにあるものではないと思う。人は環境の中で成熟していくもの。人を高めるのは、なにも物理的な環境だけではない。寧ろ、その環境に息づく人々の心こそが重要なのではないだろうか。人と人との繋がりの中で、触れ合う心によって、人の内面は大きく育つのであろう。
両親の愛、周りの人達の愛、仲間同士の友愛、恋愛。沢山の愛を受け、愛を与え、愛を共有し。愛に触れる事で、人は人として成長していけるのだろう。愛に傷つく事も少なくはない。しかし、その痛みでさえも、必ずや心の栄養となる。人の心を育て、人間性を高めてくれるのだ。涙も決して無駄ではない。いつしか自身の糧となる事だと思う。そう信じている。
愛を深く知り得たものは、他を愛する事の喜びを知り。愛される事の幸せを強くしている。なんと幸福な人生なのだろう。満たされた人生は、命の輝きに溢れている。自分が自分であることを、ありのままに喜びとできるのだ。
日々を喜びの中で過ごしていける。人生に於ける至福である。健やかな心には、きっと幸福が微笑かけてくれるのだと思う。ひとつの幸福は、10の不幸を拭い去り。ひとときの幸福は、続く苦痛を癒してくれる。素直に幸福を迎えようではないか。
私の毎日は病室のベットにある。進行性筋ジストロフィー症による障害のため、自分では指ひとつ動かせない。呼吸も栄養も機械任せで生きている。決して恵まれている環境ではないかもしれない。失ったものは多い。しかし、私の毎日は不幸ではない。身体障害は不便ではあるが、不幸だとは思えない。この身体を持って生まれ、この身体と共に生きてきた。何のことはない、この状況が私にとっての平常なのだから。この身体を含めて私が存在している。進行性筋ジストロフィー症も私の個性だと言いたい。この身体があって、この障害があることでの今の私なのだ。
私は生きがいを両手に抱えて生きている。入院生活、ベットでの毎日と聞くと。孤独なものだと思われる事だろう。しかし、私はベットに居ながらも、多くの人達との繋がりを持っている。友愛と信頼と人間愛の大きな輪だ。愉快な連鎖だ。
この充実した私の毎日には、パソコンが欠かせない。インターネットが欠かせない。私と仲間との輪には、インターネットが取り持つ役割を果たしてくれている。インターネットでは、声まで失くした重度障害者の私でも自由に飛び回り、交流と絆を編めるのだ。他人によっては、パソコンは無機質な機械でしかないだろう。だが私にとっては、パソコンは血の通った明るい世界への水先案内人なのだ。15インチの画面の向こうには、温かな絆を繋いだ多くの人達が微笑んでいてくれている。
私はこれからも生きていく。大きな愛と共に生きる。
人生は長さではない。いかに生きたか、その深さこそが大切なのだ。愛も数ではなく、その深さだ。
05/6/15
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