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療養所生活の一般的なイメージとは、どんなものだろう。療養、入院と聞いてまず思い浮かぶのは、“病気”ではないだろうか。病気には、苦しみ、痛み。さらには死というものが付いて回る。ましてや、それが治療法のない、いわゆる“不治の病”だとしたらどうだろう。悲観、絶望…といった悲愴感で一杯なものになりはしないだろうか。 不治の病で長期療養所生活。なんと暗いイメージではないか。 私は進行性筋ジストロフィー症のため、国立療養所に長期入院している。進行性筋ジストロフィー症には、未だ治療法が無い。 現在の私の状態は、寝たきりで全く身体を動かす事が出来ない。自発呼吸さえ出来ないため、気管を切開して、人口呼吸器を繋いでいる。 病気の進行具合からいえば、かなり重症ではあるが。しかし私は人生に悲観はしていない。寧ろ毎日を楽しんでいる、日々充実感で一杯だ。 私には、詩作というライフワークがある。詩とは自分の魂を投影するもので、心の風景がそこにある。私自身がそこにも居て。 詩は私の大切で、崇高な自己表現だ。自分を詩で表現する事に、私は限り無い生きがいを覚えている。 また、ベットサイドに設置してあるパソコン。これは私にとって、どうしても欠かせないアイテムだ。私の心の作品は、パソコンがあって初めて生まれ、存在するもの。さらにパソコンは、私に大きな世界を与えてくれた。 私はベットから離れる事が出来ない。声を出す事が全く出来ない。それでもパソコンは、私にネットというフィールドを見つけさせてくれ、ネット上の言葉をくれた。これから私のフィールドは、交流の輪はますます広がって行くだろう。 しかし、これも現在の環境があってこその、私であり、私の人生なのだ。もしこの環境が崩れたとしたら、私には自信が持てない。私が何をするにしても、生きて行くにしても、看護職員の存在なくしてはありえない。私が生きるためには、常に看護、介護が必要不可欠だ。私が人間らしく生きているのは、看護側の協力、努力、理解があるからこそ私は決して、1人では生きていられないのだから。 ただ、看護、介護は身体的なもの、介助だけとは限らない。 身体面の看護、介護は確かに重要だ。それは、私が生体である人間として生きて行くためには、どうしても欠かせない。だが、それだけで人間らしく生きていると言えるのだろうか。人間には、精神と肉体とがある。肉体だけでは無く、精神面の充実があってこそ、人間らしく生きていると言えるのではないだろうか。療養所は、治療法の無い、もしくは治療がままならない患者が生活している所である。だからこそ療養所では、患者の精神面の充実をはかるケアこそ、必要だと思う。 私は声が出せない。そのために、看護側の人達は、文字盤や口の動きから私の思いを理解してくれている。理解しようとしてくれている。嬉しい事、ありがたい事だ。私とのコミュニケーションには、根気と想像力。そしてなにより、時間が必要なのだ。日頃からとにかく忙しい病棟の中。多忙な看護職員とのコミュニケーションの機会は、ほんの僅かだと言える。僅かばかりのコミュニケーションだとしても、どんなに救われている事か。孤独に沈む事は無い。 療養所生活は暗いと思われがちだろう。自由は決められた範囲にしか無く、プライバシーは無いに等しい。恵まれた空間だとはとても言えないかも知れない。しかし、療養所生活は暗いものでは無いと、私は心から言える。療養所生活にも沢山の笑顔があり、冗談も飛び交っている。歓声だってそこにはあるのだ。生きがいも持てるし、目的も、夢も生まれる。 だがこの生活は、取り巻く環境いかんによっては、その光を失ってしまう。物的環境、時間的環境。そしてなにより、人的環境が最も重要だ。看護職員の人員の充実なくしては、現在の生活は守れない。ましてや向上は全く望めない。人員不足では、療養所生活は真っ暗なものになってしまうだろう。 04/1/30 |