やさしさの連鎖

 「情けは人のためならず」
 この言葉を知っている人は多いだろう。意味は、他人に情けをかける事は、その他人だけではなく、やがてはその情けが自分に返ってくる。つまり、人に情けをかける事は、その人のためだけではなく、自分のためでもあるというものだ。
 では、この“情け”とはどういうものだろうか。「やさしさ」「親切」「思いやり」「心遣い」「慈悲」といった自分以外のものへの温かい想いではないだろうか。これは特別な想いではなく、誰の心にも存在するものだ。意識する、しないにかかわらず。
 この想い、心は。常に誰かの世話になり、支えられる事によって生きている私たちにとっては。だからこそ必要であり、持つべき心なのではないだろうか。
 毎日、紛れもなく続く病棟生活。同じ生活ならば、少しでも心地よく過ごしたいものだ。
 限られた空間、限られた生活とはいえ、ここにも社会が存在している。小さなコミュニティーではあるが、体温を持って脈打つ人と人のつながりがあり、そこには人間関係が介在している。
人間関係には感情が絡みついているもの。感情のぶつかり合いはあっても当然であろう。ともすれば、その影響が尾を引きかねない。しかし、それが横行するようならば、心地よい病棟生活は望めない。
 病棟スタッフと私たち患者との間には。看護をする、看護をしてもらうという関係が成立している。受ける側の患者としては、やはり気持ちよく看護を受けたいと誰もが思っているはずだ。そのためには、看護する側のスタッフにも気持ちよく看護をしてもらわなくてはならないだろう。
 では、そのためにはどうすればいいのだろうか。そこで思い出してほしいのが「情けは人のためならず」だ。気持ちよく看護を受けるには、まずこちらかスタッフに対して、思いやりを持って誠実に接するべきだろう。その想いが伝われば、清冽な泉の水面に映る己の姿のごとく、思いやりにあふれた接し方で看護をしてもらえるのではないか。
 それこそ患者が求めている気持ちのよい、心地良い看護につながるのだと思う。
逆に患者の側が横柄な態度を見せたり、感情的な物言いをしたらどうだろう。きっとそれ相応の態度を見せる事になりはしないだろうか。
プロである筈のナース、スタッフが微妙にでも態度が変わってしまったとしたらどうだろう。
それをナンセンスだという人もいるだろう。患者が気をつかう必要などないと。
それはある意味正論なのかもしれない。
しかし、よく考えてみてほしい。病棟スタッフ、ナースだとしても、中身は血の通った生身の人間なのだ。当然人間としての尊厳があり、感情もある。そこにはプライドもあるだろう。
 患者と病棟スタッフという立場であるにしても、そこは人間対人間なのだ。
 看護をしてもらっているのだから、一般通念にもとづく態度、姿勢が必要だ。いくら一般社会から隔絶された環境であったとしても、常識はわきまえないといけない。分別のつかない子供ではないだろう。
 社会に通用する意識は持っていたいものだ。
 いかんせん、それを育む環境が極端に無い事は悩ましい。
 だからといっても、病棟スタッフに目に余るほどの感情の起伏を見て取れたら。患者としては困惑せざるを得ないし、脅威となる事も、ここに述べておきたい。
 さて、病棟における人間関係を考えてみるには、患者同士の関わりも重要であろう。
 ここでもう一度「情けは人のためならず」を揚げてみたい。
 長く終わりの見えない集団生活の中に私たちはいる。狭いエリアに籠もるかのように。
 患者同士の間にも“情け”は大きな意味があり、大切なものだろう。患者同士にはより濃い関わり、つながりがあるものだ。常に一緒に生活があり、“運命共同体”とも言えよう。
 病棟生活においては。独りよがり、自己中心は続くものではない。度が過ぎるような事があれば、確実に周りの仲間が迷惑を被る事になる。これは患者間のトラブルの種になりかねない。
 誰もが心地よい病棟生活を求めているもの。好きこのんでトラブルを望んでなどいないだろう。しかし、意に反して大なり小なりトラブルは尽きない。こうしてベットから離れられないでいる私の耳にも、罵声や罵りときには怒号とも思われるものまで届いてくる。
 原因はさまざまであろうが。思いやりの心をお互い少しでも持つ事ができれば、そうトラブルは続くものではない。
 そのためには互いをつなぐ信頼が重要だと思われる。信頼を育てるには、まず自分が信頼の心を持つことが大切だ。周りの人間を信頼していれば、周りの人間も自分を信頼してくれるだろう。「情けは人のためならず」自分の態度が、心が、そのまま周りの仲間の自分への接し方になっていると思うべきだ。
 トラブルの種はなにも直接的な衝突だけではない。知らず知らずトラブルを起こしている場合がある。それは私を含むベット生活者が陥りがちだ。
 ベット生活者は周りの様子が見えづらい。私を例に挙げてみると、見えるのは枕もととパソコンのディスプレーに本のページ。せめてもの視界とすれば、小さな鏡に映る様子だけ。さらに言えば、私は声が出せないためコミュニケーションが希薄でもある。
 このような環境に四六時中いるため、どうしても自分の世界しか見えなくなってしまいがちだ。そのために気づかないうちに身勝手な行動をしている場合もあると思われる。その行動が巡り巡って自分の首を絞める事となるのだ、周りから敬遠されたり。自分の言動がそのま返ってくると思うべきではないだろうか。
 そういうことにならないために、周りへの気配り、状況を思いはかる想像力を持っていたいものだ。
 私たち患者は、常に一緒の生活があり、同じ道を歩む同胞だと言えはしないだろうか。
 患者のことは、同じ立場である私たちこそがリアルに理解できるものである。痛みも、喜びも、苦しみも。また、時に溺れる怒りや悲しみを共有できるのも。同じ立場であり、同じ環境・世界で生きている私たち患者の他にはあり得ないだろう。ある意味においては“死”さえ共有しているとも言えるのかもしれない。。死によって遂げることなく残された遺志、想いを引き継ぐ事ができるのは私たちだけだ。「同じ釜の飯を食う仲間」いや、それ以上のつながりを持っているのが、私たちだ。
 これは親、家族のつながりとはまた違う形のつながりではあるが、強いつながりを有していると思う。
 “私たち患者はひとつ”そう思ってもいいのでないか。そう思える関係でありたいものだ。
 人は決して独りだけでは生きていけないもの。互いの存在があり、互いに刺激し合い、尊重し合うことによって、人間としての成長を遂げられる。
 「切磋琢磨」が似合う関係でありたいものだ。ひとつの病棟という環境で生きている私たちにこそ、その可能性があるのではないか。そうなり得る強いつながりが私たちにはあるのだ。
 そして、この“つながり”を成熟させる事によって、それはなにものにも替えられない“絆”へと生まれ変わる事だろう。
 “絆”それはちぎれる事のない、何よりも強く尊いつながりだと私は思う。私には絆で結ばれた親友達がいる。彼らはとうに死んでしまったが、彼らは紛れもなく私の心の中で息づいている。私の生き方は彼らの存在があるからこそ。彼らは今でも私を支えてくれる親友だ。絆とは、時空を超えても変わらないつながり、まばゆいまでの結びつきなのだ。絆は人生における糧であり、最も貴重な宝だ。
では“絆”へと成熟させるにはどうすればいいのだろう。
 「情けは人のためならず」の精神はそのヒントになりはしないだろうか。
 「情けは人のためならず」。それは「思いやり」であり、「尊敬」であり、「やさしさ」である。この人としての温かい心が、ぬくもりの感情が、一人一人のつながりを強くしてくれはしないだろうか。そこから生まれる信頼こそが“絆”への近道になるのだと思う。
一つのやさしさが新たなやさしさを呼び、それがまたさらなるやさしさを呼ぶ。「やさしさの連鎖」だ。一人一人のやさしさが大きな“輪”となって“和”を広げていく。
 「やさしさの連鎖」それが次々とつながっていけば、無益な争いなどなくなる事だろう。一人一人の心に“優しさの灯”を点すことが大切なのだ。
 「情けは人のためならず」たやすい事ではないが、頭の片隅にでも刻んでおくべきではないだろうか。