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エッセイ:肺癌ー死の淵から

僕の父は昭和7年生まれで今年73歳になる。昨年10月に組織型が低分化腺癌の肺癌で左下葉切除を受けた。手術当時はステージVBであり、縦隔リンパ節転移陽性で術後の組織検査で肺静脈断端に腫瘍が残っていた。しかし遠隔転移はなく、術後化学療法を2回受けて、一旦退院した。その後、1回の化学療法を受け、4月には母とスペインに行くのだといって楽しみにしていた。ステージVBの低分化型腺癌の5年生存率はせいぜい10%であるが、そんな深刻な病態であるということはすっかり忘れてしまっていた。それは父が予想以上に元気であったからである。なんだか奇跡が起きるのではないかという安易な気持ちが僕の中にはあった。そんな矢先、伯父が「鼻血が止まらない、咳がでる」といい始め、僕の病院を受診したいという。なんだかいやな予感がした。そう医者の直感で、悪性疾患の臭いがしたわけである。不幸にもその予想はぴたりと的中し、僕が以前いた病院の肺を専門とする外科のS先生に紹介した。伯父の手術は右葉の全摘であり、父と違い呼吸も苦しそうで、術後も放射線治療を受けていた。どちらが長生きするのであろうか?どちらも長生きして欲しいものだが・・・しかしどちらかが先に逝ってしまうのだろうなというのが僕の正直な気持ちであった。伯父のお見舞いに行ったとき、従兄弟は僕に「おとうさん(僕の父のことであるが)スペイン行ってだいじょうぶなん?」と聞いていたことを思い出す。「大丈夫や」と僕は軽く答えたが、何か引っかかるものがあった。従兄弟は無意識に何かを予感していたのかもしれない。

平成1643 お父さんが倒れた

M社の肩関節鏡視下手術セミナー参加のために大阪に向かう。明日は関節鏡視下腱板縫合の手術手技に関して講演する予定だ。大阪全日空ホテルに5時頃到着。夜7時半にはM社のSさんとOさんと近くに食事に行った。食事中珍しく嫁さん(僕はいつも妻の事を他人の前ではこう呼んでいる)から電話がかかる。出張中はよっぽどのことがない限り電話はよこさないのにと思いながら電話に出る。「お父さん倒れた」と。まさか「どちらの?実父でなければよいが・・・」やはり自分の血のつながった人であって欲しくないという思いが先にあったようである。義理の父には申し訳ないことを思ってしまった。父はステージVBの肺癌で約半年前に左下葉切除を行っている。脳への転移をおこし、その周囲に脳浮腫が生じ、症候性てんかん発作をおこして倒れたらしい。妹の婿さんは麻酔科医であるが、彼の説明からすると約3cmほどの転移があるらしく、命の別状は今のところないが、今後どうするかは後に決めなければならないようだ。手術か放射線治療か放置かということであろう。とうとうきてしまったか、これも運命なのだろうか。おこって欲しくないとは思いながら、いつかおこるのではないかという予測があったのだろうか、それとも血を分けた親であっても他人という意識だろうか、寂しいことだが何故かそれほど慌てることはなかった。命が大丈夫なら一度は元気になれるだろうという思いがあったのかもしれない。しかしこれは後に大きな間違いであったことにきづく。

平成1644 再会

セミナーの講演と実演を終わり、足早に大阪からKに向かう。今日はかなり症状が改善しているらしく、話もできるという。昨日の電話ではどうも主治医の先生が僕に話をしたいらしい。私も外科医だからわかるが、命の別状がないのに早急に話がしたいということはたぶん手術をしたいということなのだろう。その当時僕には脳転移に対する知識は少なかったが、直感的に手術はごめんだという思いがあった。その理由の一つは、そこのI先生の印象が悪かったからである。なにがと言われても説明のしようがないが、その人の持つ一種の雰囲気で、それはえてして正しいものだと自分は思っている。特に同業者(医者や医療従事者)が信用できるか、あるいはどの程度の知識をもち、どのような考えをもって患者に対応しているのかは、悲しいかなあっという間に見抜けてしまう。もちろん話をして親しくなって、はじめの印象と違うな〜ということもあるわけだが・・・・。それは僕が学生時代にもった印象だから、もうかれこれ20年近く前のことである。したがって正しかったかどうかはわからない。しかし直感で大事な父を任せたくないという思いがあった。午後9時にK駅に到着し、嫁さんの迎えでそのまま父の入院している病院に行く。すでに消灯時間を過ぎており、父は脳外科病棟のICUにいたために普通であれば面会は不可能である。しかし看護婦さんの配慮で父に面会がかなった。いつから父に会っていないだろうか。母、父、妹家族と僕の家族で回転寿司を食べて以来だろうか。そのときは父と妹の婿さんと僕の男3人でカウンターに座りあまり話がなかったことを覚えている。もっとたくさん話しておけばよかった。父は僕の顔をみるやいなや、今までに見せたことのない涙を見せた。父は何を感じたのだろうか、よっぽど不安だったのか、迫り来る死の恐怖を感じていたのであろうか。このときの顔は一生忘れることはないであろう。開口一番父が口にした言葉「スペイン行きたかった」と涙ぐむ。死を予感しているのであろうか、それとも単純に残念だったという意味であろうか。いずれにしてもどうしても母をスペインに連れて行きたかったらしい。「治ったらいけるよ」という言葉は簡単には口にできなかった。本当は治って行ってもらいたいが、脳転移を持った患者が海外に1週間以上滞在することなど僕にはとても可能には思えなかった。せいぜい国内だろうか。自然と僕の眼にも涙があふれる。大変だったね、でも思ったより元気で安心したという趣旨のことを伝えた。差障りのないことをしばらく話したあと、なんだか少し安心して病院を後にした。

平成1645 予後は?

昨日よりさらに普通にしゃべっている。誠に人間の身体は不思議だ。ちょっとした事で具合が悪くなり、わずかな治療が(適切でないといけないが)驚くほどの効果をもたらす。しかしそれは原因がなくなっているとは限らないことも医者である僕は知っている。主治医からの説明が明後日にあるらしい。自分も予備知識が必要だし、誰か専門家に聞いてみる必要がありそうだ。まず頭に浮かんだのはサッカー部の後輩のM君。彼は3月まで父の病院に勤務していて、内部事情にも詳しいだろうしいい選択だ。もう一人は高校からの同級生のT君。先ずM君に連絡をとってみる。現在は大学勤務だが忙しいのか電話がつながらない。T君も電話がつながらない。早く情報を集めて適切な治療を行いたい。しかし電話がつながらなければしょうがない。医局にある文献検索で転移性脳腫瘍、肺癌をキーワードに検索を行ってみる。数編の文献を読んだが、生命予後はそれほど期待できないようである。いかにQOLを得るかということらしい。

平成1646 制服姿

今日は当直。明日は娘の入学式である。「もしかするともう娘の制服姿は父に見せられないかもしれない」という予感に襲われる。何とかして見せてやらねば。嫁さんに電話をして無理を言って娘を制服姿で病院に連れて行ってやってほしいと頼む。後で嫁さんに様子を聞くが少しずつ正気に戻ってきているらしい。しかし後で聞いたことであるが、どうも父は娘が何かきちんとした格好をしているが、中学の制服を着ているとは認識していなかったらしい。まだやはり正気ではなかったのであろう。夜T君にやっと連絡がつく。どうも僕の携帯に入っていた番号は使っていないらしい。一通り今までの経過を説明した。3センチの腫瘍であるとかなり判断に迷うらしい。手術かガンマナイフか。KIセンターのI先生の手術はうまいらしい。手術自体僕は心配してないが、やはり術後の心配がある。合併症や消耗の度合い、それと治療期間の長さである。ガンマナイフはといえば、そうだサッカー部のO先輩がやっているはずである。直接聞いてみるのがいいかもしれない。

平成1647 説明、手術は必要か?

脳外科の主治医の説明があるということ。父はすでに外科の医師から脳の転移であることを聞かされているので、隠す必要もない。父の容態は良好で特に普段と変わった様子もない。ただ動作が鈍いのと、なんとなく危なっかしいだけである。妹、母、僕の3人で主治医から話を聞く。手術を勧められるのだろうという予想は付いていたが、当然I先生が話をするものだと思っていたが、最後まで姿をみることはなかった。整形外科医のしかも同じ大学出身の医師の父であることは知っているはずであるが(僕のおごりかもしれないが)、すこしだけでも顔を出してほしかった。手術を執刀するつもりであればなおさらである。主治医からの説明を要約すると左後頭葉に約2cm転移性腫瘍があり、その周りの脳浮腫により症候性てんかんがおきたとのこと。手術の場合局所コントロールはできるが体力の消耗と、時間がかかるということが問題。ガンマナイフという選択もあるが、再び大きくなることもあるし、組織型によっては効かないこともあるという。そのほかに数えられないがいくつか転移巣があるらしい。そのときはなるほど主治医のいうことも確かだなと思ったので、父にもそのように伝える。父は「とってほしい」という。常に前向きな人だなと思う。自分もよくそういわれるがやはり遺伝であろうか?さて、後に文献を調べて分かったことだが・・・・ちょっと待てよ、ガンマナイフは組織型による効果の差はないはずだ、しかも3センチ未満の転移性腫瘍ならガンマナイフがかなりよい成績であることが数多く報告されている。この病院ではガンマナイフはできないため近医に紹介することになるのである。自分は医者であるために分かるのであるが、医者はエゴの強い人種で常識がない人間が多いと自分では思っている(自分もそうかもしれないが)。したがって、えてして自分の患者は自分の守備範囲で(自分の病院内、自分ができる処置の選択肢の中で)対応しようとするものであり、しかもこの病院の医師はガンマナイフの経験が少ないらしい。したがって正当な判断をゆだねるのは危険であると僕は感じた。僕は整形外科医で、肩関節の専門家である。中でも関節鏡視下手術が専門だが(もちろんオープンの手術も得意である)、よく関節鏡視下手術をしたこともない先生にそれはどうだこうだと批判されることがある。生意気かもしれないが「自分ができるようになってから批判してよ」といいたくなる。感情が入ってしまった。そんなわけでガンマナイフの専門家であるサッカー部のO先輩に相談してみようと判断した。その先生なら手術とガンマナイフのどちらがよいか正しい判断を下してくれるはずである。その夜、友人の脳外科医に意見を聞いてみた。3cmなら迷うが2cmならガンマナイフがよいという結論であった。妹の旦那である麻酔科医にも相談。「自分は以前からガンマナイフがいいと思っていた。国立の脳外科医のI先生は大学でバリバリやってきた人だから手術を勧めると思うけど」と。やはりガンマナイフがよいのではないかと思う。あす、サッカー部のO先輩脳外科医師に聞いてみることにする。

平成1648 ガンマナイフ

朝、ガンマナイフの専門家であるサッカー部の先輩脳外科医師に電話で相談する。状況を説明すると開口一番「手術なんかしないほうがいいよ。2センチなら局所制御率90%、3センチでも80%や、I先生もわかっとるはずやけどな。手術が少なくなってきているからそういうのかもしれない」と。これで決まりだ。ガンマナイフで治療する方針を固める。その日、父を尋ねたとき手術よりもガンマナイフがいいであろうということ、また今まで感じてきたこの病院の脳外科医の対応に自分としては少し疑問を持っていたことを父に伝える。父は大事な自分の治療のことにもかかわらず、手術を拒否してガンマナイフをすることで、僕の立場が悪くならないものか心配している。そんなこと考えずに最善の治療を受けてもらいたいと思う。僕は立場などというくだらないものは捨て、なりふりかまわずできるだけのことをしたいと思っている。主治医の先生が全身検索の結果が来ているので説明したいとのこと。縦郭リンパ節の転移はあるが、肺内転移、肝転移はない、しかし骨スキャンは集積部位が増えているらしい。頭の次はいよいよ脊椎か。主治医に二つの質問をしてみた。1。ガンマナイフの治療の経験はありますか? 2。自分の父親なら本当に手術をするのですか? 1。に対してはあまり多くの経験はないらしい、何例か診たことがあるという程度であろう。2。に対しては驚くことに「ガンマナイフします」とはっきり答えられる。手術を勧めておいてなんだと思うかもしれないが、彼も大変だな、という同情が湧き上がる。なぜかお分かりだろうか?多分、彼は学問的にはガンマナイフの適応であることはよく知っていたのであろう。しかし2番目の医師の宿命で、上司には逆らえないのである。医者の世界にいる僕はこの一言で彼の立場を理解した。健闘を祈りたいものだ。そして、もしまた父を見る機会があれば真っ当な判断をしてもらいたい。夜、妹と妹の旦那さんに意見の調整をし、ガンマナイフを行うという結論を得る。母に電話し翌朝父と話しをしたいことを伝えた。

平成1649 決定

早朝父から電話がある。ガンマナイフをしたいということを主治医に伝えてほしいと頼むと、「すぐに手術しないという返事をすると僕の立場が悪くなるかもしれないから、明日主治医に言う」と父が答える。それもいいかなと思うが、やはり決めたことなら一日でも早く治療を始めたいし、ガンマナイフの予約を一刻も早く取りたい。そういう一心で今日中に主治医に伝えるよう父に頼む。今日は金曜であるから、ぜひ今日中に予定を立てておきたいという思惑もあった。一日一日が勝負である。あと数ヶ月かもしれない。3ヶ月とすると、父が元気で普通の生活を送れる時間はもうそう長くない。90日の2/3とすると60日。毎日会ったとしても60回だ。娘や嫁さんが3日に一回会ったとすると20回しか会えない計算になる。妹は少し遠くに住んでおり、2児の母であるから週に2度会うのが精一杯であろう。そうすると16回ほどしか会えないことになる、週1ならわずか8回だ。なんということだろう。もっと自分が転移に注意を払っていれば・・・・一人になるたび涙があふれる。

僕の趣味は自転車で1週間に約200300キロ走行する。時間にすると約12時間ぐらいである。自転車をこいでいるときは結講いろんな事が頭に浮かんでくる。涙があふれる時、それは一人で自転車に乗っている時が特にひどい。こんな景色も見せてやりたい、どうしてもと親孝行しなかったのか、この桜来年は見せてやることができないのだろうか、涙を流しながら走ることが多くなった。

平成16410 退院?

12日月曜日父はKIセンターを退院するという。主治医からそのように説明を受けたという。ガンマナイフが19日だから1週間何もすることがないからであろう。手術をしない患者(儲からない患者)は早く出してしまえというようにも感じられなくもない。しかし脳浮腫は大丈夫なのであろうか、原因(転移巣)の処置をしたわけではないから脳浮腫は再び増悪してもおかしくないはずだ。グリセオールの点滴はというと月曜の朝までするらしい。何か釈然としない。月曜帰って1週間大丈夫という判断なら点滴はぎりぎりまでしなくてもよさそうだし、現在薬は抗てんかん剤のみである。ガンマナイフのO先生に聞いてみると大丈夫だろうという返答。少し安心するがMRIも見ていないのに本当に大丈夫なのであろうかという気もする。

月曜の退院。それは厳しい医療情勢の産物である。土曜に退院させると、ベッドが土日空くことになる。入院は平日にするのが普通であるから、退院患者は土日を病院で過ごし月曜に退院というのが病院にとっては一番ありがたい。しかし、退院する側から言うと家族が迎えに来る土日が一番ありがたい。医者はいろんな理由をつけて月曜に退院させたがるものだが、こんな理由があることを一般の人は知っているだろうか?少なくとも僕は、退院はいつでもよいと患者さんに言っている。傾向としてはやはり金、土、日に帰りたいという人が圧倒的に多く、わざわざ月曜に帰りたいという人はごく少数である。その人たちの理由は「先生の顔をみてから退院したい」または「土日の外泊の結果、大丈夫なら帰りたい」ということのようである。

平成16411 桜そしてゲンジホタル

外は桜が満開である。来年の桜を父がみることのできる可能性はきわめて低い。前日自転車でO市を走ったとき、所々できれいに咲いた桜が美しい。そのたび「父は来年の桜は見ることができないんだな〜」という思いが募り、涙が出てしまった。今日はどうしても桜を見てもらいたい。母の提案でT町の樹林公園に行った。駐車場から公園に行く道は見事な桜吹雪でまるで父を歓迎してくれているようである。こんな景色ははじめてみた。あまり歩き様がよくないために駐車場から近くを選んでコンビニで買った昼食を食べることにした。歩行はまだおぼつかなく、何かロボットのような歩き様である。脳の指令がまだ全身にスムーズに行き届かないらしい。座ったところの周囲は松林で、松の種類も非常に多いことに驚かされる。父と母はそれをゆっくりとみて歩いている。以前スイスに行った時に大きな松ぼっくりを見つけ持ち帰ったという。きっとスペインにいけなかったことを残念に思っているんだろうと思うと、涙が出そうになる。最近すっかり涙腺が緩くなってしまった。ちょっと待てよ、植物の種子など海外から持ち込んではだめなのではなかったかな〜、みんなで笑ってしまった。

S市で見たゲンジホタルの話が出る。それは見事なもので、川沿いの大きな木にまるでクリスマスツリーのようにきれいであった話をすると、父が「それは見たいな〜」と一言。ゲンジホタルといえば6月頃。今から3ヵ月後である。うまくいけば見ることができるかもしれない。ぜひとも見て欲しいと思う。

花見のあとT地区にある蕎麦屋に行き早い夕食をとって病院に帰る。段差を降りることが非常に困難のようであり、頭のダメージが大きいことを知らされる。病院に帰る頃には父もかなり疲れたらしい。よく眠れることだろう。

平成16412 脊椎転移?

今日は退院の日である。KIセンターの全身検索では肺内転移なし、肝転移なし、縦隔リンパ節腫脹あり、骨スキャンで第912胸椎、第245腰椎、第1仙椎、肋骨に集積があった。頭はガンマナイフで治療することにしてあるから、残るは骨転移にどう対応するかである。脊椎転移は直接生命予後には関係ないが、疼痛や麻痺をおこしQOLを著しく低下させる。特に胸椎におきた転移が麻痺をおこすと、対麻痺といって両下肢の麻痺がおこるために車椅子の生活になってしまう。それまでに自由に動いていた足が動かなくなるということは、癌にかかったと同じくらいの苦痛ではないかと思う。癌患者が告知を受けたときと同じくらいのショックをもう一度味わうなんて、耐えられない。先ず本当に骨転移が存在するかを確認する必要があるために、午後僕の病院に来てMRIを撮影してもらう。僕は手術であったために撮影をしたあとは帰宅してもらった。夜、手術後ひっそりと静まりかえった外来で、一人MRIを恐る恐るシャーカステンにかけてみる。胸椎の集積部位ははっきりした転移巣はないようである。一方腰椎は集積のある部位に変形性の変化があるために、腫瘍に特徴的な像ではないがT1でもT2でも低輝度の領域が椎体に広がっている。特に第5腰椎と第1仙椎がひどい。やはり転移であって欲しくないという身内の感情が先にたつ。確か肺を手術するときのKIセンターでのMRIでははっきりし変化はなかったはずである。以前のMRIと比較する必要があるであろう。早速KIセンターの呼吸器外科D先生に連絡をとってMRIを貸し出してもらう約束を取り付けた。明日丁寧にももってきてくれるという。ありがたいことだ。

平成16413 やっぱり・・・

夕刻D先生がわざわざ僕の病院まで以前撮った腰椎のMRIを届に来てくれた。夜、一人でシャウカステンにMRIを並べてみる。こうしてみると、以前から脊椎には小さな転移巣があったように見える。ずいぶんと進行している、たった6ヶ月の間に・・・。脊椎の転移の拡大は痛みと麻痺につながるために後のQOLに大きな影響を及ぼす。今後の治療方針を考えなければならない。治療の方法としては、放射線治療になるが時期とどのくらい照射するかが問題らしい。時期は、症状がない早期に行うか、症状が出てからかということである。照射の方法は8グレイの一回照射か、23グレイの複数回照射ということらしいが、やはりどの程度の予後が見込めるかということに関連する。一回照射は疼痛には有効であるが、症状が再発しやすいらしい。しかし、時間を有効に使うという意味ではよい方法であると思う。父の場合はどうであろう、どれくらい生きられるかということだが・・・。低分化腺癌、脳に遠隔転移あり、肺と肝には転移なし、非常に難しい。答えは出ないのかもしれないが、引き下がるわけにはいかない。奇跡を信じたいと思う。しかしその裏で、命は救えないと考える冷静な医者である自分がいる。つらいことである。

平成16414 放射線治療

KIセンターのD先生を訪ねる。脊椎転移に対して放射線治療をしてもらうためである。ガンマナイフの治療で頭の転移に関してはしばらく安定した状態が続くであろう。したがって次にQOLにかかわってくるのは脊椎の転移であろうと予測したからである。脊椎転移は何しろ痛い。痛みが強くなると動くことができないから、生活の制限も多くなる。僕は整形外科医で、転移性骨腫瘍の患者さんを診る機会があるが、痛みが強くなると人格が変わってしまうし、モルヒネを使う量も日に日に増加していく。そんな父の姿は見たくないと思った。前夜、同級生のK先生が静岡で転移性脊椎腫瘍の放射線治療を専門に行っていることがひょんなことからわかり、電話で情報をもらっていた。脊椎転移に関しては症状がなくても早めに照射を行ったほうがよいという。特に胸椎の場合は麻痺がおこりやすいからだそうだ。幸い父の脊椎転移は腰椎が主体で、胸椎はあまり大きくないためまだ安心であるが、先手を打っておいたほうがよさそうである。放射線科医師のS先生に連絡をとってもらい、ガンマナイフが終わってすぐに脊椎に対する放射線治療を行ってもらうことにした。5月の連休明けにするという案もあったのだが、なるべく早くからはじめたいとの僕の意向を汲んでくれてのことである。父の治療で多くの医師に助けてもらっている。ありがたいことだ。

平成16422 当直

今日は当直である。さすがにお見舞いにはいけない。嫁さんが言っているはずなので状況を確認した。熱もなく体調もいいらしい。しかし嫁さんに言わすと咳をよくしているらしい。母に言わせると4人部屋のみんなよく咳をしているらしいが、そのうち3人はガンマナイフを受けているということ。ということは3人ともステージ4の悪性腫瘍ということだ。当然原発が肺癌でなくても肺転移はあってもいいはずだ。父の咳、縦隔には腫瘍は残存していたが、肺内転移はなかったはず、しかし3週間前のことであるから進行していてもおかしくない。どうも縦隔に残存していた腫瘍が気になる。

平成16423 全脳照射

当直明け、今日は全脳照射のマーキングの日。今日はかなり言動もはっきりし、体調もいいらしい。ここ数日は熱も下がり、とても脳に無数の転移巣あるとは考えられない。おそらく、金沢医療センタ―に転医後、グリセオールの点滴が続いており、ステロイドの内服も始まっていて脳浮腫が軽減しているせいであろう。ガンマナイフの前前日のふらついて歩く姿や、前日の痙攣発作時、20日の高熱時の言動からは想像もつかない。ガンマナイフの効果と考えたいところだけど実際はどうなのだろう。21日母には父の寿命がそれほど長くないこと、全脳照射で病変の完全なコントロールは無理なこと、そして失われる時間のことを伝えたが母は強がっているのかそれほど落ち込んでいるようには見えない。それが逆に僕の悲しみをあおる。

全く医者のできることなんて本当に微々たる物である。どこかの偉い人が言っていたが、医者ができることは患者の自然治癒力を引き出し手助けすることにすぎないと。邪魔してはいけないのである。父は僕の肉親ではあるが、現在最も重要な僕の患者でもある。一つ一つの言動に注意を払いながら今後どうすべきか考えていかなければならない。しかし、自分が父の主治医であるということに気がつくのが遅かったかもしれない。もう少し早くから、肺の手術後から骨と脳の転移に対して注意深く経過観察すべきであった。そうすればもう少し早い段階でいい治療を受けさせることができたかもしれない。

今、医者になって17年これほどまでに患者と向き合ったことがあっただろうか。今まで自分は何をしてきたのかと反省させられる。僕は整形外科医だが、自分で言うのもなんだけど手術は決して下手なほうではない。多くの人を救ってきたという自信もある。しかしそれは、目の前にある病気を治しただけであり、患者さんという一人の人間を治療してきたのではなかったのではないか?と考えさせられる。

今日一つうれしいことがあった。僕の出した薬、骨吸収を抑制する骨粗鬆症にも使う薬だが、放射線科のS医師は「息子さんの愛情の薬」と言っていたと。このことを父がうれしそうに、そして少し目を潤ませて僕に伝えてくれた。

平成16424 親不孝者

大分言うことがはっきりしてきた。一時期言っていることのつじつまが合わないことが多かったが、最近はそれほどでもないようだ。しかし、やはり物忘れは多い。最近まで父をこんなに近くで見ることがなかったので、これが年のせいによるものか、癌の転移によるものかはっきりと判断が付かない。母に言わせるとこんなものだったようだが、そうだとすると父は知らない間にずいぶん年をとってしまったようだ。僕は不肖の息子で、本当に親不孝ものである。このような変化に気付いていなかったという事は、自分のことばかりに気をとられ、親に対してはまったくといっていいほど思いやりがなかったといって言い。父は僕が仕事に一生懸命打ち込めるようにと、嫁さんによく説教をしたと聞いている。そのとおり僕は自分の仕事と趣味のことしか考えてこなかったわけであるが、おそらく両親は寂しい思いをしていたに違いない。一度父が、母を時々買い物にでも連れて行ってやってほしいと僕に頼んだことがあるが、見るに見かねていった言葉に違いない。

あい変わらず母はせっせと料理を作り朝晩病院に通っているようである。食事は取れているようだし、顔色もよい。しかし体重は肺を手術してから変化がないようだ。最近時々発熱するようだが、すぐに解熱する。ガンマナイフ翌日のような高熱は出ないが、なにぶんステロイドの内服もしているので本当に熱がないのか疑わしい。腫瘍熱ということもありうるし癌性髄膜炎の可能性もあるが、頭痛、吐き気などはないので経過観察でよいと思う。しかし、何がおきても心配なものである。脳転移が分かってからはほとんど毎日顔を見ているので、ちょっとした変化が気にかかる。ということは、肺の手術後転移が発見されるまで約半年、僕は医者でありながら父の病気をまったく診ていなかったことになる。もう少し注意していればもっと適切な治療できたはずだ。僕は医者になっていくつかの失敗をしているが、この失敗は医者としての最大の失敗に値する。自分の肉親さえも守ってやれなかった最悪の医者・・・・うかつだった。

平成16425 主治医は誰?

今日は自転車の試合が群馬であり、朝3時に出発し9時出走。結果は入賞を逃し13位。スノーボードから切り替えてまだ5週ほどであるからまずまずといえばそれまでだが、まだまだ練習が足りないと実感。ゴールスプリントで父の顔を思い浮かべ「押して!」と頼んでみたが不発。でもこれで奇跡が起きたときには父も長くないだろうから、かえって安心している自分は馬鹿だろうか。単に力が及ばなかっただけだろうし、奇跡は人にない努力をしたものにのみ起こるものであるから、自分にはおこりようがないはずだ。自転車仲間の出走が昼過ぎであったが、父のことがやはり気になり同行者にお願いして11時に群馬を出発した。

帰宅後病院に。病院にいくといつも以上に嬉しそうな父の顔。いつもなんともいえない顔をするのだが、やはり実の息子が来てくれるということは嬉しいことなのであろう。自分が若しあと数日の命で、何を一番望むかというと、いい仕事でもなく充実する趣味でもなく、家族と過ごす安らかな時間であろう。嫁さんには申し訳ないが、特に血を分けた娘とすごす時間は格別であると思う。話があればいいが、別に黙っていても一緒にいるそれだけでいい。その次が両親と嫁さんだな。

いよいよ明日から全脳照射が始まるわけであるが、どの程度腫瘍がコントロールされるものか、合併症が起きないものか自分にはよく分からない。しかし、ガンマナイフの治療後、A病院のサッカー部の先輩脳外科医師によれば「転移は無数で若ければ全脳照射の適応」と。僕はこの先輩には感謝しているが、じゃあ若くなければ適応はないのか?という疑問が頭をかすめた。僕が医者であること、合併症の心配、全脳照射には時間がかかるために安らかな時間が失われる可能性があること、などを考えて言ってくれたのであると思うが、「全脳照射はうちではできんからな」と最後は少し引き気味の返答。頭に関してはすべてを任せるつもりであったが、やはり自分がイニシアチブをとらなければことが進まないようだ。

父の治療でずっと感じてきたことであるが、肺は呼吸器外科のドクター、ガンマナイフは脳外科ドクター、全脳照射は放射線ドクター、骨転移は整形外科ドクター、それぞれ専門分野で力を発揮するのは結構なことであるが、専門分野以外のこととなると「よくわからんから」とか「うちではできんから」とか逃げ腰になり、踏み込んだ話をしてくれない。せめてわからないならわからないなりに自分の親と思って考えてくれてもよいのにと思う。表現形は違っても(肺癌、大きな脳転移、多発性の脳転移、骨転移)同一の人間ことなのに、誰も先頭をきって導いてくれないのだ。関係された先生には失礼であると思うが、今の医療の現状である。がん治療においては何十パーセントかは不治の病で、そして多くの専門医が極めて専門的な知識を集結し、時には勝負をかけて戦い抜く必要があるから、それをきちんと導く医師、すなわち多くの専門医を統括し意見の調整を行う医師が一人必要だと思う。それを感じ、今時分は治療を多くのドクターにお願いしているわけだが、その治療が正解かどうかはよく分からない。時々自分の判断が誤っているのではないだろうか?と思うこともある。しかし自分がやることが、父に対する親孝行であろうし、自分にしかできないのではないかとも思う。でも、自分の自己満足に過ぎないのではないかと思うこともある。今までの親不孝を何とか精算できないものかという・・・。明日からの治療うまくいってほしいものだ。

隣のS本さん。彼は鶴折の名人である。普通の大きさの鶴から小さなもの(6ミリほど)まで毛抜きを上手に使ってS本さんの手から生まれてくる。父の前にいるSさんは「鶴は1000年だから、その命の長さに少しでもあやかりたい」とS本さんからもらった鶴を大事にしまってあるそうである。S本さんもっとすごいのは手をつないだ鶴を折ることができることだ。最大12羽つながっている。四角い紙を細長い短冊状の紙でつなぎ、四角い部分を鶴として折っていくわけだ。大きいものと小さいものを混ぜると親子連れになる。父の命の1000年祈願用1羽、うち用に3人連れ1組、妹家族用に4人連れ1組、娘用に1羽いただいた。S本さんも1000年生きられるように祈っている。

平成16426 全脳照射初日

全脳照射初日である。今日も軽い発熱があったよう。父は転移巣が吸収されるときに熱が出るのだと信じ込んでいる。もっともそれが一番可能性は高いが、最近続いている咳が気になる。斜め前の患者さんは昨夜吐血して現在ICUにいるとの事。数日前から調子が悪そうだったので心配していたのだが案の定である。やはり癌という病、油断は大敵だし、また突然何が起こるのか予想がつかない。父の気分はかなりよいらしく、新聞まで買ってきている。症候性てんかん発作後、家に帰ってきて新聞を読んだら、四角い写真がゆがんで見えていたそうで、文字もはっきりせず二重に見えるため新聞を読む気がしなかった、と以前言っていたことを思い出す。ということは少し読んでみようかという気力が出てきたのであろうか。今日A病院でのおもしろいエピソードを父が教えてくれた。ガンマナイフの前は発熱したり、小発作がおこったり、今から考えると言動もかなりおかしかったのだが、どうもトイレの後部屋を間違えて、自分のベッドに(本人はそのつもりだが、部屋が違うので当然他の人がいるはずだ)もぐりこもうとしたとき、ベッドの中におばあちゃんがいることに気付き大変驚いたとの事。僕は病院勤務で、かなり高齢者も診ているので、誰かが誰かのベッドにもぐりこんだとか、私の部屋に異性が忍び込んでくるなんていうエピソードは年に一度くらいあるものだが、まさかその当事者に父がなるとは思ってもみなかったし、もぐりこんだまたは忍び込んだ人の気持ちがはじめて理解できた。正気ではないのですね。しかし、それを楽しそうにしゃべる父の姿が、なんだかおかしく、また、ようやく普通に近くなったのかな~とも思う。

前にいるSさんは小細胞肺癌で初診から放射線と化学療法で2年以上生き続けているらしい。ガンマナイフも経験しており、60台だが結構若々しい。現在化学療法中であるが、もう終了も近く28日には退院するらしい。「私が退院したら、テーブルすぐ変えんとだめだよ」と父にアドバイスしている。父のテーブルは自由に動かせるが小さいために物がたくさん置けない。Sさんはそれを心配して交換するよう勧めているのである。となりのS本さんもそうであるが、癌患者というと悲壮感の漂うくらいイメージがあるが、実際ははそうでもなく、結構みな明るい。入院生活は暗く、早く家に返したいという気持ちになるものだが、いや、こういう人たちと生活を共にするのも結構楽しいものかもしれない。同じ癌患者同士生きる力をお互いからもらっているような気がする。余談であるが、父の肺癌は低分化腺癌であり、Sさんの小細胞癌とは大きく異なる。肺癌は大きく分けると小細胞癌と非小細胞癌に分類され、小細胞癌の方が放射線療法、化学療法共によく効き予後も比較的よい。わざわざあなたの癌はSさんの癌と違うんだよと説明するつもりはない。Sさんから生きる希望をもらって欲しいと思う。しかし、Sさんの話を興味深げに聞き入る父の姿が不憫に思える。こういうとき、自分は医者でなかったらよかったのにと思ってしまう。何もかもが見えすぎてしまうのである。

平成16427 一日が勝負、告知のこと

   本当にこの人は数か月後にはこの世にいないだろうか。歩き方もしっかりし、言うこともはっきりしてきたし、笑顔も多くなった。しかも回りの肺癌患者さんの生き生きとした言動を見ていると、父に奇跡が起きるのではないこと思ってしまう。無数にあった脳の転移が消えてなくなってしまうのではないかという・・・。しかし油断は禁物だ。一日一日を大切にしなければいけないと思う。

今日もとなりのS本さんは絶好調で、自分が若かった頃の話をしてくれた。というより独演会であったが。S本さんは相当のやんちゃ物であったらしい。喧嘩もしょっちゅうしたらしく、身体も大きいので、かなりのものだったのだろうと想像がつく。しかし、踊りや茶道もたしなむ優しい部分も持った男である。ところが女はまるっきりだめだったらしい。本人の弁によれば「触るとふにゃふにゃして壊れそうで怖い」ということらしい。

また、戦争体験者でもあるが、当時は「死ぬ」ということに対しては全く恐怖は感じなかったようだ。自衛隊がサモアに派遣されている現在、彼らは死ぬことも覚悟して行っているだろうと。ボランティアが拉致されて、政府が開放に努力した費用を被害者に請求したことが問題視されているが、S本さんによれば、女性の方は以前から現地にいたので別だが、他の二人は周囲の反対も押し切り自分の責任で行ったのだから、本来なら政府が交渉に努力すること自体ありえなかった話で、ほったらかしでも文句は言えないはずだと。しかも「また行きたい」などもってのほかだと批判していた。なるほど、戦争を体験した人が言える重みのある言葉かもしれない。東京の空襲のことも話してくれた。空襲は東京の町の外回りから始まり、逃げ場をなくされた後、その中を攻撃されたらしい。熱さのためにアスファルトは溶け、消防車はみなその熱さでパンク、歩くのはあたかも熱くなった沼地を歩く様に大変だったという。みんな川や池の水に飛び込んだそうだが、次から次へと人が飛び込むために、はじめに飛び込み下にいた人はみな溺れ死んだそうだ。そのような戦争体験をしたSさんは「戦争なんか絶対するものではない」とイラク戦争を批判していた。

S本さんは父と同じ腺癌だそうだが、時々痰の絡んだ咳をするのが気になる。この人も死の恐怖におびえているのだろうか。普段は全くそのようには見えないが、一人涙を流すこともあるのかもしれない。「癌患者はかわいそう」と以前は思っていた。それは健康なものの癌患者に対する差別ではないかと最近思いだした。癌患者だってごく普通に生活しているし、かえって一般人より強く生きているようにも感じる。また一人涙することはあるとは思うが、四六時中死の恐怖におののき涙しているわけではない。確かに命は短いかもしれないが、人生を全うする最後の時間を与えられているのである。家族にしてもそうである。辛いながらも、11秒を大切にして精一杯努力しているのである。僕には美しく見える。もっとも、自分が癌であるわけではないので、余裕を持ってみているだけだと批判されてもしょうがないと思う。ある意味、悲しいかな他人事というところもあるかもしれない。

癌患者が強く生きられるための必要条件として、告知をされているということがある。何年か前までは、癌は不治の病で本人に知らせると落ち込むから内緒にしておいて欲しいというような家族からの申し入れがよくあったし、医者のほうも悪性疾患は本人には告知しないという雰囲気があった。僕も医者になった頃はよくそのようなことがあり、一人の人間の生死がかかった問題に対して、本人抜きで家族がその判断をする(告知をするかどうかの判断)のはおかしいのではないかという疑問があった。家族といえども他人がである。最近は癌も結構治るものも出てきて、告知するのがごく当たり前になってきたが、これまでは自分の病気のことも知らされず、「治るよ、治るよ」といわれながら、どんどん容態が悪化し「自分の病気はなぜ治らないのだろう、もしかしたら不治の病かもしれない」という疑問を抱きながら命を落としていった人が相当たくさんいたはずである。彼らはきっと無念であったに違いない。一番大事な最後を自分の意志で生きられなかったからである。

平成16428 照射3日目順調だ、MRさんは好きではない

全脳照射3日目である。父の体調は日に日によくなるようで、熱も出ず、歩行も非常に安定してきている。昨日頭のMRIを撮ったらしいが、その結果が気になる。しかし、浮腫が消えているくらいで大きな変化は期待できないであろう。何分ガンマナイフ後10日しかたっていないし、全脳照射もまだ3回である。せいぜい6グレイくらいしか照射されていないであろうから。

前にいたSさんは退院してしまっており、肺炎の患者さんが変りに入ってきていた。父のテーブルは約束どおり大きな物に変更されている。斜め向かいの患者さんはすでにモルヒネの内服を使用しているらしく、便秘がひどく困っているらしい。通常2錠で十分効果のある緩下剤を4錠飲んでも排便がないようである。モルヒネをすでに使用しているということは、おそらくすでに骨への転移があると予想がつく。モルヒネはご存知のように麻薬で、強力な鎮痛効果がある薬剤である。癌患者の疼痛を緩和し生活の質(Quality of life)の維持に役立つ薬だが、一旦使用し始めると減量できることは稀である。平生はごく普通に振舞っているが、やはりこれまでに数々の癌と命を賭けた戦いを演じてきたのであろう思うと、頭が下がる。彼らに比べれば自分などは健康で、これ以上望むことなど何もないはずであるが、小さな事で文句を言ったり、うじうじ悩んだりとくだらないことにエネルギーを注いでいる。大きく生きていきたいものだ。

僕はMRさん(薬のメーカーさん)があまり好きではない。彼らは、僕らが薬を使わないと営業成績が上がらないために、薬の宣伝するために僕らのもとにやってくる。最近はどこの病院でもMRさんの訪問時間が規制されているために彼らも必死なのであろう。僕らが仕事をしていてもお構いなしに声をかけてくる。僕も人がいいから(ほんとうか?)いやだな〜と思いながらも「どうぞ」と言ってしまう。MRさんの何が嫌いかというと、あまりの丁重さが気に入らないのである。つまり、医者が薬を使わなければMRさんの営業成績は上がらないわけであるから、「何とか使っていただけませんか」ということになるわけである。そこには自然と上下関係が出来上がる。これはおかしいと思うのだ。たまたま選んだ職業が医者と製薬会社の社員であっただけで、ヨーイドンで競争して出来上がった上下関係でもなんでもないわけだ。彼らにうやうやしくされる理由など何もない。僕は使いたい薬を使うし、使いたくない薬はMRさんのいかんにかかわらず使わない。近年、接待はご法度の時代だから(しかし今だにMRさんを食い物にしている医者もいる。悲しいことである)、あの手この手で医者にアプローチをしてくるものだ。先日など、新薬を売りたいがためであろうが、僕に「骨粗鬆症の社内講演をして欲しい」との依頼があった。前にも書いたが僕は肩関節鏡視下手術の専門家であると自負しているから、「肩関節の講演」なら受けたかもしれない。あるいは、「(僕がたくさん使っている)薬の効果に付いて話して欲しい」というのならまだ話がわかる。しかし骨粗鬆症の事は詳しくないし、彼に義理を立てる必要もないので、丁重にお断りした。新薬を売りたいなら、正々堂々と新薬の説明をすればいいのだ。残念ながらそのMRさんが売りたい薬がなんであったか思い出せない。順序が逆だろと言いたい。

平成16429 元気がない

今日は全脳照射後はじめての休み。大きな変化はない。しかしポツリと母が漏らした言葉が気になる。最近なんとなく元気がないらしい。確かにいつ病院にいってもベッド上にいるし、あまり歩きたがらないらしい。階段も上りたがらないという。確かに意識消失発作を起こしてからというもの、歩容は良いとはいえない。しかし眼の調子もよくなり、花見に行った頃と比べると早く歩けるようになっていたので、安心していたのだが・・・。全脳照射の影響であろうか。しかしまだ3回であるからそれほどの影響はなさそうだが、やはり年齢的なこともあるのであろうか。自分がお願いした治療というものが本当に正しいのであろうか?自信がなくなる。父のために本当に良いことをしているのであろうか?O先生は「答えはない」と言っていた。D先生は以前全脳照射にはあまり気が進まないようなことを話していたことを思い出す。D先生は僕の納得がいくように配慮している様子なので、自分がしっかりとしなければいけないと思う。

最近は、母も少し落ち着きを取り戻してくれた。しかし、なんだかこのまま父が生き続けてくれるような、そうであってくれればいいのだが、そんな期待で、あと数ヶ月一分一秒を大事にしていかなければならないという、脳転移で意識消失発作をおこした当初の危機感が薄らいでいるようにもみえる。自分の中でもそんな感じになってきている。人間は忘却により、つらさから救われるものであるが、時に大切なことを忘れてしまう。しかし、心配事が薄らいだ余裕のある時間を味わうことも良いのかもしれないと思う。時計が止まればいいのに・・・。

平成16430 親孝行の時間

今日は手術が2件あり、時間的に父のお見舞いにはいけなかった。このところずっと毎日顔を見るのがあたりまえだったために、たまにいけないと不安なものだ。父が健康なときは数ヶ月顔を見なくてもまったく平気だった。「親孝行したいときに親はなし」とはよく言ったものだ。その点、僕はまだ救われている。父の「肺癌」という病により、親を少しは大事にする時間を与えられたのだから。僕の娘にこのことを話したとき、娘は大粒の涙を流していた。自分の時には娘は安らかな時間を僕に提供してくれるであろうか。

母に連絡をとるが携帯電話がつながらない。携帯電話の意味がないじゃないと思うが、母は数ヶ月前にやっと携帯電話を持ち始め、まだ慣れていないためらしい。後で聞いたところによれば、家に忘れていったとのこと。この携帯電話、父がはじめに意識を失って倒れたときに非常に役立ったらしい。それは電話番号の登録がしてあるからで、救急車を呼んだ後はじめに嫁さんにかけたらしい。緊急事態の時にはなかなか冷静になれないもので、よくかけなれた電話番号でも思い浮かばないことがよくあるものだ。母は特にそのようなときには、パニック状態になるだろうから、非常によかったと思う。今日は大きな変わりはないようだ。ありがたいことだ。

平成1651 全脳照射は妥当であったか?

今日から大型連休が始まり、病院での放射線治療も連休明けまでは休みとなる。調子は悪くはないようだが、肺の手術を受けた頃に比較すると元気がないような印象であったので、かえって連休に外泊できるということは、体を休める上で日程的には良かったかもしれない。夕食をかねて外泊中の父の様子を見に行った。すでに食事は終わっており、くつろぎモードである。しかし、なんとなく元気がない。質問には応対するし、周りの話に時々反応するのではあるが、それ以外のときは放っておくと今にも寝込んでしまいそうである。全脳照射はそれほど体に負担であるのだろうか。しかしまだ4回である。あと21回(約4週間)残っている。今の治療の選択は間違っていたのだろうか。次第に元気を取り戻しているように見えるときは、自分が選択した治療に自信を持てるのであるが、元気ないところを見ると迷いが生じる。

430日に放射線科のS先生から頭部MRIの結果説明がある予定であったが、後日ということになっている。結果は気になるが、おそらく大きな変化はないか良くなっているということなのであろう。医者の勝手な立場からすると、緊急事態が起こっていれば早急に説明をする必要がある訳だし、それほど変化がなければまあ後日でも良いかと考えるものだ。医者であれば検査→結果判定→今後の治療方針の決定という作業は、一日に何十回となくある作業であり、その日のうちにすべての患者さんにそれを伝えることができるとは限らない。医者だって人間である。しかし患者あるいはその家族の立場からすると、なるほど結果は一分一秒でも早く伝えてもらいたいものである。時々検査終了後、検査の結果はどうでしたかと何度も質問を受けることがある。少し待てないものだろうかと思ったりすることもあるが(特に多忙なときなど)、その気持ちが今になって初めて実感として感じることができた。僕は決してよい医者とはいえないようだ。

平成1652 自信がない

今日はS県で自転車レースがあり、朝3時半同級生の内科医師とともに滋賀県に向けて出発した。レースの結果はまずまずの結果であったが、今日も奇跡はおきなかった。修行が足りないためか、まだ父の寿命が十分に長いためかはわからないが、自分で勝手に父は最期に自分のお尻を押してくれ、奇跡をおこしてくれるものと信じ込んでいる。したがって、変な安心感を持っている自分がおかしい。しかし、昨日の元気がない様子が脳裏に浮かび、昼過ぎに一度電話を入れてみる。父は一人で留守番のようであり、声はいつもどおりの感じである。少し安心して電話を切る。

昨日父が言っていたことであるが、どうも元気がないのは、自信がないということらしい。つまり、症候性てんかん発作で意識消失をおこし、その後意識が戻ったとき、自分に何がおきたのか、どこにいるのかがわからず、また約一日の記憶がないことを知らされ、なんだか0から出発したような感じをもっているのだという。もちろん自分の名前もわかるし、何かを忘れたわけではないので気にする必要がないと思うのだが、そう感じるのだという。おそらく、また意識消失発作をおこすのではないかという不安が先に立っているのかもしれない。父は治療によって癌が消失すると考えているので、また同様の発作がおきたとするとそれは治っていないという事を意味する。それを知るのが怖いのかもしれない。例えていうなら、あまりできの良くなかった入学試験の結果を恐る恐る待っているような心境なのであろう。やはり、転移をおこした癌そして死を許容するということはそんなに簡単なことではないようである。しかし、こんなことを書けるのかも、所詮自分が健康であるからなのかもしれない。

平成1653 叔母夫婦のお見舞い

日中一通りの用を済ませたあと、夕方に自宅に行ってみる。今日は連休ということもあり、奈良に住む叔母夫婦が来てくれたようである。叔母の旦那さんは膀胱癌で膀胱の全摘術を受けており、化学療法の経験者でもある。しかも学生時代は落語研究会に所属しており、話がすこぶる面白い。また、父がガンマナイフを受けると聞いて、インナーネットを駆使して情報を収集し、その結果をファックスで実家に送ってくるほどの人だから、さぞかし楽しい思いをし、また勇気をもらったに違いない。最近の父の状態はそれほど変化がない。しかし、食事のとき食物を良くこぼすようになった。細かい動作はかなりできるようになっているのだが、耐久性がないのか、あるいは手以外のところに意識がいくと自然と手の力が抜けてしまうのか、いずれにせよ脳が全く正常に働いているとはいいがたい。しかしまだこぼしたことに気がつくので救いようがある。

意識消失発作をおこしてから約1ヶ月がたつ。一日一日が勝負と考えてすごした30日間であったが、なんとも過ぎてみるとあっという間である。後どのくらい生きられるのかはわからないが、できるだけのことはしてあげたいと思う。当面の予定は、589日の温泉(N温泉、山が良く見える露天風呂がある)、源氏ホタルを見に行くこと、そしてできれば僕の学会発表(6月末か7月はじめ)を一度聞いてもらいたいものである。

平成1654 新しい治療

外泊もあと2日となった。僕は大学時代のサッカー部のOB戦と会があった。OB戦の場で、ガンマナイフでお世話になっている脳外科医のO先生に会った。最近の状態と、全脳照射を始めたことを伝える。脊椎の照射をやめたことを伝えると、もう少しすると脊椎にも頭のガンマナイフと同様な治療ができるようになるという情報を提供してくれた。照射は当然一回ですむことになるので、脊椎転移で痛みを伴うがん患者内は朗報である。7月か8月くらいになるという、はたしてそれまで持つものだろうか。しかし、父の生命力に期待するしかない。外科医のD先生の姿は見られなかった。少し話をしたいと思っていたので残念である。OB戦のあと時間があったので、実家によろうかとも思ったが、何もない変凡な一日もいいかな〜という思いもあり明日実家に行くことにした。それほどの変化はないらしい。実家で母の料理を満喫しているものと思う。

平成1655 毎日すき焼き?

昨日は顔を見ていないので、今日は見に行かなければならない。しかも、今日は外泊から病院に帰る日である。夜6時頃に実家に着くとちょうど父は夕食中であった。一昨日と同様すき焼きを食べている。実家に外泊中はかなりの頻度ですき焼きを食べていたらしい。聞くとやはり肉は体力がつくからと言う。それに付き合わされた母はかなりすき焼きには飽き飽きしているらしく、その日は父一人ですき焼きを食べていた。どうも母は後から好きなものを食べようというのか、僕たちと一緒に何か食べようというのか・・・そんな心づもりであったらしい。

さて、外泊中父は何度か散歩に出かけたり、自転車の練習などを行っていたという。左右のバランスは大丈夫だったのだろうか。母に聞くと、左側に行きにくいというが、これはおそらく右の運動野の近くにある転移のせいではないかと思う。この場所も左後頭の転移巣と同時にガンマナイフの治療をしている。新聞は読みやすくなったらしいし、テレビを見るのも苦痛でなくなったというから、左後頭葉の病変の関与は少ないだろう。また腰椎の関与も考えられるが、今のところ腰痛もないし神経症状もないので否定的ではないかと思う。後でわかったことであるが、歩行がしっかりしない理由はどうも左足に力が入りにくいためだという。ガンマナイフの治療による一過性の麻痺の可能性もあるし、転移巣による麻痺ならガンマナイフの治療が功を奏していれば回復する見込みはある。しかし転移が拡大するようだと麻痺は進行していくかもしれない。

そんな状況を父は知らないだろうから、一生懸命回復しようと努力しているのである。父も必死で癌と戦っているのだ。生きようという意欲があるということは良いことである。しかし、きっと自分の思うように物事を判断したり、字を書いたり、行動したりすることができず歯がゆい思いをしているのではないかと思う。つい最近まで自分が普通にしていたことができないのだから・・・。病院に帰るときも歩いていくから、荷物だけ運んでほしいという。一度は回復して元気になってほしいと思う。

589日は父、母、妹家族、僕の家族で、山の見える露天風呂がある温泉に泊まる予定である。出発前に僕の友人の開業したクリニックを一度見てもらいたいと思っている。父は僕が仕事をするのに良い環境をいつも作ってくれようと努力し、いつも心配してくれていた。そして、友人たちを大事にしないといけないと良く言い聞かされた。だから、こんなに立派な友人が周りにいるということをすこしは知ってもらいたいと思う。そうすることで父の心配事も少しは少なくなるのではないかと思う。

平成1656 魂

今日は僕の外来も連休明けで大変だった。午前に受付した人の診療が夕刻にならないと終わらなかった。その後父の入院している病院に。昨日久しぶりに病院に父を送りに行ったとき、病院の臭いが鼻につき、なんだか自分まで病気になりそうだな〜と感じたものだ。今日は一日自分の病院にいたせいかそうでもない。やはり病院ってのは良いところではない。人が一生を終えるのには何か冷たくさびしいところのような気がする。よく旅先や、他人の家に招待されたりして時間をすごすことがあるが、そのうち自分のうちが恋しくなり、家に帰ると何かほっとするものである。自分の死に場所は自宅にしてもらいたい。

最近はあまり涙を流すことはなかったが、久しぶりに自転車に乗りながら涙が流れた。人は死んだら、その魂はどこにいくのだろうかと考えたからだ。父が母や僕たち家族、妹家族、そして今まで生きてきた中で出会った人たちを愛し、愛された証はいったいどこに消えてしまうのだろうか。その人たちの心の中になどというありふれたフレーズはどこか違うような気がする。そんな実体のないものではないような気がするのだ。保存したファイルのようにどこかのパソコンにインストールすればまたよみがえるようなそんなものともまた違う。暖かい血の流れた玉手箱のような・・・それは行き続け、あるときどこかでよみがえることのできるような、そんな生きた実態のあるもののような気がするのだ。しかし、実際には何も残らない。それが無性にさびしかったのである。

今日、外科のD先生から51日の採血結果をもらったようで、母がその異常値を気にしている。WBC、γ-GTPALPが高値を示している。僕が一番気になったのはALPの上昇だ。医学的知識がある人なら、そのほとんどが骨由来であることは知っている。症状はないがやはり脊椎転移の影響だろうか。幸い顆粒球減少はなかった。母は異常値がひとつでもあると何か心配らしいが、僕は頭、縦郭、脊椎に転移があることを十分に承知しているから、多少の異常値には驚かないし、これがもっとひどくなったときにはもう命も長くないであろうことは覚悟している。母には転移のことは言ったはずであるが、やはり奇跡をおこして父がそのうち元気になってくれるものだと信じているようだ。今は良いが、悪くなっていったときの母の落ち込む様子が想像されてつらいものがある。放射線治療の影響か最近はあまり食欲がわかないらしい。父がポツリと「生きるのがいやになった」と・・・。昨日も書いたが、確かにそうかもしれない。それだけ気力を振り絞り闘っているのだろうということは容易に想像がつく。しかし、隣のS本さんは「そんな馬鹿なことは言ったらいかん。死ぬことはいつでもできるし、死にたければ病院なんて来る必要がない。家にじっとしていればそのうち死ねる。娑婆にに生まれたからには精一杯生きなければならない」と。S本さんいつもながら良いことを言う。母もそれに乗じて「生きてる間は明るく生きなければ」と。神経質なA型人間の母にしてはなかなか前向きなことを言う。退院したS水さんの明るさの影響もあるのだろうし、母の精一杯の励ましであったのかもしれない。

そういえば意識消失発作をおこしてから、もう1ヶ月が過ぎた。何かあったという間だった。こうやって2ヶ月、3ヶ月と過ぎ、来る日が来てしまうのであろうか。悲しいことだ。

平成1657 いよいよ

今日は手術が2件あり、遅くなったために父の顔を見ることができなかった。明日はいよいよ以前から計画していた温泉旅行である。父にはぜひともゆっくりと良いお湯を楽しんでもらいたい。

平成1658 温泉初日、痩せた下半身

今日向かう温泉は僕たちが住むK市から約140キロ離れた場所にあるN温泉というところである。ここは以前僕が、麻酔科のドクターと一緒に行ったことがある。派手なところはないが、簡素な山荘に静かな露天風呂があると思ってもらうとイメージがわくと思う。僕はあまり派手な温泉は苦手だ。静かにゆっくりとくつろぎたいので、質素なほうが良い。しかし、僕は結構高級志向なので、あまり汚く雑然としたのもよろしくない。小奇麗でないといけない。そんな勝手な要求を満たしてくれる宿が錫丈という温泉宿である。今の父にはうってつけな宿だ。そこに向かう前に、同級生の友人のクリニックに寄る。彼は、人のいい優しい整形外科医であり、2年前に開業したがその地域ではかなり評判が良いらしい。開業当初はどうなることかと心配ばかりしていたらしいが、今では職員の数も増え、外来患者も多く時間内に診察を終えるのがなかなか難しいという。こんな不景気の御時世にあって、しかも開業医には風当たりの強い昨今、うらやましい限りである。父はどうしても彼に挨拶がしたいらしく、どうも僕のことをよろしくと頼みたいらしい。自分の寿命を知ってかどうかはわからないが。病気になってからというもの、父はいつも僕の同門会名簿を持ち歩き、いろんな病院に行ってはその病院を観察して、僕によくアドバイスをしてくれる。よっぽど僕のことが不安らしい、というより、親の子を思う気持ちであろうと思うと、なんとも目頭が熱くなってしまう。僕には妹が一人いるが、彼女のことはあまり心配していないのでなおさらである。外来も終わりに近づき、彼との挨拶を交わす。父は僕がいつも世話になっている、今後もよろしく頼みたいということを思わず噴出す涙をこらえながら必死に訴えていた。父が彼に生きて会うことはもうないかもしれないと思うと、僕のほうも目頭が熱くなってしまう。父もそれはなんとなく感じていたのかもしれない。そんな気がした。

いよいよ出発だ。車に乗った父は時々会話を交わすものの、やはり元気がなく、放っておくとすぐに眠りについてしまう。車を止めて休憩すると、父はすぐに横になってしまう。最近気になっていたことだが、消耗がひどい。全脳照射の影響か、最近食欲もなくなんだか急にやせたような気がする。早く畳に横になりたいという。ようやく宿に着くと、父は真っ先に部屋に入り、横になってしまった。時々会話には参加するものの起き上がる元気はなさそうである。食事の前にようやく父と何年ぶりかに一緒に風呂に入る。段差を上り下りするときにやはり足元はおぼつかない。服を脱ぐと父の下半身は驚くほどやせている。しばらく見ないうちに随分年をとったものだ。特に股関節周囲と、大腿部の痩せがひどい。これでは十分に歩行できないはずである。しかし父に言わすとこれでも随分良くなったそうである。やはり、意識消失発作はかなりの消耗をきたしたらしい。夕食はかなりのボリュームで、当然父はすべてを平らげることは無理で、妹のだんなさんに自分のおかずを勧めている。約2時間で食事を終えると、父が「もう行こう」と。2階に上がるとすぐに布団にもぐりこむ。早々に眠りについたらしい。夜中父の顔を改めてみていると、随分と痩せてしまったような印象だ。このままやせ続けて、小さくなってあの世に行ってしまうのだろうか。癌とは残酷だ。人の生きる力をじわじわと奪っていく。医者の力なんぞというもの、随分と非力なものだ。ここに来たこと喜んでくれているのだろうか?

平成1659 一つ生きる目標がなくなった

早朝3時、食事前と2回父は入浴したようだ。あのなんとも心もとない歩みで、よく2回も一人で入浴したものだと感心する。2回とも母が付き添ったようだが、母は結構「大丈夫だろう」と楽天的である。朝食後もやはり部屋で寝てしまう父。食事時以外はほとんど寝ている。しかし、朝少し歩くのがうまくなっただろうと僕に歩きようを見せてくれる。確かに少しうまくなっているようだ。父は楽しんでくれたのだろうか。もう二度と来ることができないかもしれない旅行を。宿を後にするとき、玄関口で、父とみんなで記念撮影をする。父と母、妹夫婦、そして僕の家族でこのような写真を撮ったのはかれこれ10年ほど前のことであろうか。同じように温泉の玄関で撮影した写真が、実家に飾ってある。みんな随分年をとった。神様もう一度で良いから、同じような写真を撮らせてください・・・。

帰り道、父に僕のうちに来て昼食をとることを提案するが、病院に帰るという。「病院で休みたい」と。父には無理をさせてしまっただろうか。病院で母と父をおろし自宅に帰る道中涙があふれてとまらなかった。父が生きる目標の一つがなくなってしまった。次はゲンジホタル、その後は僕の学会発表を見てもらいたい。

平成16510

旅行中の父の姿は元気なときとは比べ物にならないような憔悴した姿であった。それは歩行がぎこちなく、とくに階段がふらついてうまく上り下りできないことや、すぐに疲れて眠ってしまうことから感じたことであった。しかし不思議なことに、病院に帰ってベッドにいる父の姿は、案外と元気そうに見える。それは周りが病人ばかりであるためか、病院が段差などがなく、バリアフリーにできているためか、それほど長く面会しているわけではないので、父が一時の元気を振り絞っているためかはわからない。いずれにせよ、病院の外で生活するということがいかに難しいものか改めて認識させられた。僕は整形外科医でそんなことはあたりまえだと思っていたが、医者としてではなく家族として患者に接して初めてわかったのである。今までに多くの患者さんが退院という一つのハードルを必死に越えてきたのだな〜と思うと頭が下がる思いである。

今日も父は僕の将来のことを心配して、病院のことや仕事のことなどについていろんな話をしてくれた。それは今に始まったことではないのだが、今まではあまり聞く耳を持たなかった。不思議なことに今は素直に耳に入ってくるようである。それはこの先もう聞けないかもしれないという思いがあるためだと思う。少しでも頭の片隅に残しておきた尾と思う。

平成16511

今日病院に行くと珍しく母の姿がなく、父は横になって寝入っていた。父をおこし、少し話をするがなんだか元気がなく「まことに死に際になって女というものはわからないものだ」と言っている。母と喧嘩をしたようだということは容易に想像がつくが、長年連れ添った母のことがわからないといわれても、父以上にわかっている人はいないだろうからこっちも困ってしまう。何について喧嘩をしたのかは「夫婦喧嘩は犬も食わない」というから、詮索せずに黙っていた。今日も父は僕の将来のことや病院のことについていろいろと話してくれた。父の愛読書は、同門会名簿という、同じ医局員の名簿であり、これをいつも眺めている。つまり、何年目の誰が、どこでどのようなポストについているから、僕の将来はどうなるかのどと一生懸命考えているのである。父は若い頃から小さな企業の管理職であり、その経験を元に僕の将来の予測を立て、こうしたらいい、ああしたらいいといろいろ考えてくれるのである。もちろん役立つこともあるが、会社のシステムと医局や病院のシステム自体が根本的に違うので、必ずしも正しくはないのだが素直に聞くようにしている。

父と母の喧嘩のことであるが、後に母に電話をしてみたが、原因は教えてくれなかった。しかしさらにその後、母から直接電話があり、「お父さんはいろんなことを考えすぎだ。しっかり療養して、ゆっくり休んで治ってからいろんなことを考えてほしいのに、父が言うことを聞いてくれない」のだという。父はすでに自分の寿命が長くないことを少しずつわかってきているようで、今が最後といろいろと心配事を解決しようとしているのであろう。一方母は、治らないことはわかっているであろうが、やはり奇跡を信じて、しっかりと治してほしいという気持ちが先にたつのであろう。どちらの気持ちもわかるが、今は父が優先ではないかと思う。母にはそのことをわかってもらいたい。

平成16512

今日は講演会があり病院には行けない。どうも放射線科のS先生から明日退院の許可が出たようだ。父は病院食事が口に合わないらしく、早く退院したいといつも口にしていた。その希望がかなうわけである。しかし先日父が「次に入院するときには、食事に参ってしまう。それで体が弱ってしまう。食事の良い病院に連れて行ってもらいたい」と涙ながらに訴えていたことを思い出す。次の入院は体もかなり弱っているかもしれない。あと何回入退院を繰り返すかはわからないが、入院するたびに状態は悪くなっていくのではないだろうか。今回の退院後の生活は実質、最期の人間らしい生活をする機会になるかもしれない。そう考えると、できるだけの援助と親孝行をしてあげなければならないと思う。しかし、ここ一ヶ月間ずっと考えてきたことであるが、親に対して感謝の気持ちを表すために、一体何をしたらいいのだろうか?自分は今までそのようなことは全く考えたことがなかったから、非常に戸惑ってしまう。毎日顔を出して、元気な姿を見せてやること、親の話を聞いてやることしかできない。それで良いのではないかと勝手な解釈をしているが、世の中の人たちはいったいどうしているのだろうか?答えがあったらぜひ教えていただきたいものだ。一度で良いから「今までありがとう」と一言いってやりたいが、なかなか言えないでいる。もちろんタイミングもあるが、心で思っていても、実際に口にするのは非常に難しい言葉である。

平成16514

13日は手術、14日は私用で遅くなり、実家にはいけなかった。家には電話を入れておいたが、特に変わったことはないという。しかし、退院時、放射線科のS先生に階段昇降の練習はだめといわれたという。放射線治療中、ふらつきや軽度の麻痺は続くと考えての事だと思うが、その真意ははっきりとは計り知れない。しかし、日曜日に温泉に行ったときの状態ではやはり階段での怪我が心配で、積極的に練習しなさいとはとてもいえないのも確かである。しかし、父は階段を上って一生懸命通院するのだ張り切っていたので、少しがっかりしたらしい。しかし、まず平地をスムーズに歩けるようにしてもらいたいと思う。また、すぐに歩いても疲れるようなので、歩行距離を少しずつ伸ばしてほしいものである。一つだけ気になるのは、腰椎の病変が進行していないかどうかという点である。4月のはじめに検査をしてから約1ヵ月半がたつが、6月には再検査をしておかなければなるまい。骨スキャンと腰椎MRIである。父は今だに脊椎病変は癌の転移とは考えていないようであり、もちろんそうであってもらえばよいのであるが、とても医者としてはそのようには思えない。しかし、それを否定することも酷なので、今のところは転移ではないかもしれないねと返答しているが・・・・今後症状が出てくると、やっぱり転移だったのかとがっかりしてしまうのではないかと心配である。人間とは不思議なもので、自分だけには奇跡がおこりうると思ってしまうものらしい。十分にというか、正直に転移のあるところはきちんと説明しているつもりであるし、特に母には命は長くはないと説明してあるが、落ち着いた状態が続くとそれが永遠に続くのではないかと錯覚してしまうものらしい。こんな僕も、もしかしたら奇跡が起こるのではないかと錯覚してしまう。遠隔転移のある肺癌の予後が長くても1年であることを知っているのに・・・・

平成16515

今日はスノーボードのC級インストラクターの講習会と、その後の宿題の完成のためにやはり実家には行くことができなかった。ここ1ヵ月半はかなり緊張した日々をすごしてきたので、精神的にもかなり疲労感がある。何とか有効な時間を父に提供してあげたいと思うが、なかなかそれはできることではない。自分の生活もあり、父の生活はやはり僕の生活とは別のものであるようだ。一生懸命育ててくれたのに、それに恩返しがなかなかできない自分に苛立ちを覚えるが、しかしすでにお互いが別々の場所で、別々の生活をしているのだからしょうがない。自分の娘もきっとそのようになるのだろうと考えると、やはりさびしいものがある。今娘は中学1年生だから、あと5年もすれば親元から巣立っていくのである。そろそろ子離れしなければいけない時期に来ているのかもしれないと思いながら、いつも考えていることであるが、父に何をしてあげればいいものだろうかと悩んでしまう。

平成16516

今日は講習の後、数日振りに実家に行ってみた。退院後はじめてである。久しぶりに見る父の頭は、放射線治療のために脱毛が起こり始め、なんともさびしい頭になってしまっていた。すっかり見た目も年をとってしまっていた。しかし、言葉には結構張りがあり、病院にいた頃よりも食欲もあり、毎日散歩をしているのだという。父は自分の言ったことや思ったことは必ず正しいのだという信念を持っており(ある意味勘違いかもしれないが)、いわゆる頑固者で特にガンマナイフの後からはそれに拍車がかかったように感じる。一方は母、父の健康を考えてのことと思うが、癌にあれが効く、これが効くと一生懸命で、母の言っている「健康や癌によいもの」をすべて摂取すると、3度の食事が全く取れないだろうと思えるほどにいつもそのことばかりを口にしている。それぞれのいうことはそれぞれの立場を考えるとなるほどとうなずけるのであるが、そんな二人がまじめに議論するものだから、今日の二人の会話はいつ喧嘩になってもおかしくないくらいの印象を受けた。これが二人の調子なのであろうか。改めて親のことは何も知らなかったのだな〜と反省させられる。母に今度、父の言うことには「そうかそうか」と受け流すように言っておかなければなるまい。ひとまず元気なので安心し帰宅した。

平成16517

今日は手術が3件あり、どうしても実家によることができずに、残念ながら帰宅した。すると、母から電話が。「いつも何か連絡があるのに、今日はどうしたのかと思って」と。ここ1ヵ月半連絡を欠かしたことがなったので、母も心配になったらしい.明日は当直なので、どうしても行きたかったのだが時間が遅くなったのでしょうがなかった・・・。というのはいい訳だろうか。確かに父のことは心配だが、最近は放射線による障害はあるものの、状態としては落ち着いている。父は癌と放射線治療と戦い大変なことは百も承知だ。しかし、周りの家族も結構体力がいるものである。僕は、一日たりとも油断はできないと今まで考えてきたので、心身ともにかなり疲れていることは確かである。ただ、母はもっとと大変なんだろう考えると、やはり自分の身勝手さを感じ、また頑張らなければいけないな〜と思う。両親には悪いことをした、反省。
今日僕の外来に来たMさん。Mさんは僕の同級生の父親で、実家の近所で洋服屋さんをしていたかたである。「しばらく見んうちにお父さん元気なくなったね。元気のある人やったのに」と。やはり他人から見ると父の歩き方はかなり以前とは異なって見えるらしい。大変な病気と闘っているんだな〜考えさせられると同時に、父がかわいそうで涙が出そうになる。しかしMさんには、詳細は伝えずに、何とか涙をこらえてその場はしのいだ。人間の脳とはまことに精巧にできている。ちょっとしたことで具合が悪くなる。まさに精密機械である。しかし、がんじがらめにできていないところがまた都合がいい。ある程度で何とかなるものなのである。父の脳転移も放射線治療で何とかなってほしいものであると、素人のようなことを考える今日この頃である。

平成16519

父とは3日ぶりの再会だ。人間の頭髪とはその人の印象に大きな影響を持つ。父の頭髪は更に脱毛が進み、しかもまだら状態で、いっそうやつれて老けたように見える。ここ23日食欲もないという。放射線科のS先生の診察があり、一日に何度も分けて食べ物をとるように言われたようだ。しかし、化学療法の時ほどではないが、かなり食欲がないようである。父に言わすと、便が出ないから食べられないという。更に、しゃっくりが出だすと吐き気をもよおすらしい。内服薬を飲んだ後一度はいた。元気がなく、苦しんでいる姿を見ると、もう治療はやめたほうがいいのではないかと弱気になってしまう。たまに、治療の途中で家族や本人の申し出で治療を中断することがあるが、その心境が始めてわかった。医者の立場からすると、始めたからには最後までするのがあたりまえということなのだが、何も死に際になってこんなに苦しめなくても良いんじゃないか、そこまでしなくてもいいというのが家族の気持ちだろうと思う。しかし、今日で13回、あと11回の照射である。2週間と少し頑張ってもらいたい。外科のD先生は、以前何もしない方法もあるよといっていたのを思い出す。本当に治療をしているのが良いのか、何もせずにゆっくりとしているのが良いのか僕はすでにわからなくなってきている。父を苦しめているだけではないのかと。放射線治療は生活の質を上げるためにやる治療であることは百も承知だ。確かに脳の多発転移はコントロールできるかもしれないが、それに費やす時間、つらい日々、など失うものも多い。それ以上に得るものがあるかは、今は全くわからない。奇跡を信じるしかないのだろうか・・・・。もうすぐホタルの時期が来る。ぜひとも見せてあげたい。

平成16522

昨日は学会で実家には行けなかったが、何とかやっているらしい。このところ、自分はかなり疲れ気味で、一緒にいる母は24時間父といてよくもまあ体力が持つな〜と感心していた。しかし、これは僕の認識不足であったようだ。結論から言えば、死に至る病と闘う本人は一番大変なではあるが、家族はそれと同様に体力を消耗する。

今日事件があった。実家を訪ねると、妹夫婦が来ていて、総勢9人が集まって、話をしていたときのことである。妹の旦那さんは以前から人参が癌に効くから、毎日飲むように勧めてくれていた(参考までに、1本の人参で約200mlの人参ジュースができるらしいが、理想的には11500ml飲む必要があるらしい)。人参はやはり臭いが強い、味が今一つである、口に残るという理由で、なかなかたくさんは飲めないものだが、りんごジュースと混ぜて、放射線治療の開始当初は父も何とか文句を言いながらも飲んでいた。しかしここ最近は吐き気が強く、飲んでいないらしい。そのことを母が言ったときの事である。父は「吐き気があって飲めないのだからしかたがない。」母曰く、「みんながお父さんのためを思っていっているのに。」と。ここまでは良かった。その後なぜこうなったかはわからないが父曰く「近所の人に自分の治療のことをあれやこれやと言うのはやめろ。」それに対して、「治療のことは隠さなくても良いでしょ。うまくいっているから、ほかの人にもと思って」と母。それからどちらも引かないものだから、父は最後には「もっといい人と結婚していればよかった。」とまで言ってしまった。さすがにこれには母も参ってしまったようで、2階に行って泣き崩れてしまった。まったく、何十年も連れ添ったいい大人が、身内とはいえ二家族のしかも孫たちの前で大喧嘩をするなど、もってのほかである。父の言い方も良くないが、母も病人に対してそこまで真剣に応戦しなくてもいいのに。しかし、ある意味ではここまでできる夫婦は幸せかもしれない。

このような事件はなぜ起きたか?それは、1.転移に対するガンマナイフ治療、その後の全脳照射の影響で、人格に多少なりとも影響が出ている。2.肺癌、脳転移、死に対する恐怖など、父の精神的な破綻(うつ状態)。3.母の病気に対する認識不足(理解しろといってもそれは無理なのだが)。この3つが原因である。僕から言わせれば、母が応戦せずに「はいはい」と聞いていれば、何にも問題がなくすんだはずである。ではなぜ母が応戦したらまずかったのか。それはこうである。以前も書いたが、現在すでに父の肺癌はステージWである。平均余命は1年以内。母が父に反論して、喧嘩をしている時間的余裕はまったくない。時間の無駄である。それから告知の弊害としては、死の恐怖に対する欝が知られている。精神的破綻である。父は強い人だから、こんなことはおこさないとタカをくくっていたがそうではなかったらしい。つまり欝には、励ましや反論は禁じ手である。母にはこのことをよ〜く諭しておいた。

以前母には父の寿命が1年もない、数ヶ月であることは伝えてあったはずである。しかし、母は父が新聞も読めるようになり、父が治ろうと努力している姿を見て、もしかしたら年単位で寿命が延びるのではないかと勘違いしていたらしい。少し残酷ではあったが、母には「父の寿命は長くはない。夫婦喧嘩している時間的余裕はない。一番苦しく、精神的にもつらいのは父だから、その支えになってほしい。真面目に応戦せずにまず受け入れてあげてほしい」と言っておいた。いい機会だったのかもしれない。母も賢い人だから、わかってくれると思う。

平成16523

昨日のあの事件のあと、どのようになっているかと思ったが、どうも普段と変わらずにやっているようだ。まあこれが夫婦というものであろう。最近父は小学校1年生の計算問題を解いている。数日前僕が、脳の活性化のためには簡単な計算が良い、と父に教えてあげたことを早速実践しているようだ。これは科学的に証明された事実であり、簡単な問題をなるべく早く解いていくことは、脳の多くの部分を使っていることになり、痴呆の防止に用いられている。また、小学教育でテレビにも紹介された「100ます計算」もこれと同じ効果があるのではないかと思う。いずれにせよ、計算問題をやってみようという気力があるということは、生きる気力を持っているということである。放射線治療もあと9回となった。土日は治療がないので比較的体も楽そうだが、また明日から治療が始まる。あと2週間頑張ってほしいものだ。食事は相変わらず少ないようであるが、今の時期、無理に食べろといっても無理なのかもしれない。最低限の栄養補給は行って、じっくり休んでいるのがいいのかもしれない。昨日母が言っていたことであるが、体力が消耗しているのか、日中眠っていることが多いようだ。しかしこれも仕方のないことなのかもしれない。いまはゆっくりと体を休めたほうがいいのかもしれない。治療終了後の体力回復に期待したい。今はそれを願うばかりだ。

平成16524

今日からまた治療が始まる。しかし残りはもうすでに10回を切っており、いよいよ終わりが見えてきた。本当に大変だったと思う。しかし相変わらず食欲はなく、食事を食べられるときもあれば食べられないときもあり、全体の摂取量としてはあまり多くはないらしい。以前はたくさん食べないとだめだよとアドバイスしていたのであるが、最近は食べられるときに食べるように言っている。食べられないときに無理にいってもストレスになるだけではないかと考えたからだ。

手術で帰宅時間が遅くなったのだが、明日は当直なので、寝ているかもしれないと思いながら実家に行ってみる。案の定、もう布団に入っているが、僕が行くと起きて来てくれる。歩き方はやはり腰をかがめておぼつかない感じは以前と変わっていないが、パジャマのズボンをはいていない。なぜかと聞くと、ズボンのゴムが体に当たって痛いのと、便が出るときに備えてだそうだ。足はかなり細くなっており、ゴムがあたる部分の皮下脂肪が減ってしまったためにゴムの圧迫がきつく感じるのであろう。またズボンの着脱にかなり困難があるために、最初から脱いでおけば楽だということなのではないこと思う。なんだか少しずつ日常生活にも支障をきたすことが多くなってきているように思う。僕が感じるくらいだから、本人は相当「以前は普通にできたのに、こんなこともできないのか」と心の中で葛藤を繰り返しているに違いない。そのような感覚は、以前膝の靭帯損傷のため2週間ギプスで下肢を固定したときの感覚と似ているのではないかと思う。あの2週間は忘れられない。つまり、膝が曲がらないだけで、歩行、畳の生活、排便など日常生活動作のあらゆる動作に困難があり、全く生きた心地がしなかったからである。父の場合は、それがじわりじわりと自分に押し寄せ、全く回復する見込みが立たないから、なおさら精神に与えるダメージは大きいのではないかと思う。自分たちにできることは、精神的な支えになってあげることなのかもしれない。

平成16526

昨日は当直で連絡ができず、実家に行ってみる。今日で治療も19回終了し、あと6回を残すだけである。1週間と1日である。きっと長い道程であったに違いない。しかし、相変わらず食欲はなく、ちょっとしたことですぐに嘔吐をおこしてしまうようだ。今日は放射線のS先生の診察があったようで、治療後落ち着いたらMRIを撮るという事である。無数の転移巣はどうなったであろうか。またガンマナイフの治療効果はどうであろうか?6月に入ったら、以前から気になっていた脊椎の再検査もしなければならない。また、縦郭に残っていたリンパ節転移はどうなっているだろうか。腫瘍マーカーの推移は?などいろいろ気になることが多い。現在、食欲はないものの、状態としては安定しており、元気にしゃべっていることもある。しかし、疲れやすく、眠ることが多くなっているという。放射線の治療の副作用は、化学療法の副作用のように激しいものではないが、じわりじわりと真綿で首を絞められているように比較的軽いものが長く続き、かえってかわいそうな気もする。自分は放射線の副作用の方が残酷だと思う。それに耐え続けた父の忍耐には頭が下がる思いである。治療終了後は、一度は体力を回復し、おいしいものをたくさん食べて、元気な姿を見せてほしい。治療方針を決定した自分としてはそうでなければ両親、妹夫婦(二人はガンマナイフのあとはまた出てきたものに対しガンマナイフをすればよいという考えであった)に顔向けできない。

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今日は手術が2件で時間があれば実家による予定をしていた。一件目の手術終了時に、外回りの看護婦さんから「ご自宅から電話がありました」と。病院にかかってくる自宅からの電話など、ろくでもない用のことが多い。また何か起こったのか?と心配ななり、すぐに実家に電話をしてみた。案の定父が熱を出しているという。母が心配になってかけてきたらしい。よっぽど心細かったのであろう。しかしすでにD先生に連絡し、坐薬を入れて熱も治まってきているという。心配しないで手術に集中してほしいという。両親に一度僕の手術を見てもらったことがあるが、その時も母は、自分たちがいることで息子が緊張して手術がうまく行かなかったらどうしようと心配しながら涙を流していたと聞いている。ありがたいことだが、僕にとって手術室は戦場といっては大げさだが、勝負をかける場所である。したがって、多少のことでは緊張しない。そんなこととは両親は知らないだろうから、こんなに心配してくれるのであろう。手術が終わったら実家に顔を出そうと思っていたが、手術の後急患が来たために、遅くなってしまった。もう寝ている時間だろうと思い実家にはよらずに自宅に帰った。しかし、帰ってから思ったことであるが、遅くなっても寄ってあげたほうがよかったかもしれない。母はひとりで心配であったであろう。明日も、症例検討会などで遅くなるが、短時間でも顔を出してあげたほうがいいだろう。少し思いやりが足りなかった。

平成16528

今日で放射線治療は21回残すところあと3回となった。珍しく朝母から電話があった。吐き気止めの薬を早くほしいという電話であった。最近父の食欲はますます低下し、ほとんどものを食べることができなくなってきている。その一つの原因がしゃっくりと吐き気である。昨日吐き気止めの坐薬と内服薬があるという話をしたので、この薬に大きな期待を寄せているのであろう。しかもわざわざ電話までよこすということは、かなり切迫していると理解できる。今日の夜必ず届けなければいけない。今日は夕方病院で講義をしたあと、症例検討会が近くの病院であるためにいつ行けるかわからない。しかし、なるべく早くいくようにしなければいけない。講義と症例検討会の間に約30分の余裕ができたために、自宅に薬を届けに行った。案の定、この薬を使ってから夕食を取ろうとわざわざ僕が来るのを待っていたらしい。早くもって行ってよかった。検討会の後だとすると10時頃になっていたはずなので、それでは両親に申し訳が立たなかった。幸いに吐き気もなく、少量の夕食を食べることができたらしい。

患者さんの要求は24時間待ったなしである。医者の立場からすると、そんなに急がなくても・・・とか、自分の仕事の段取りもあるから後にしてほしい・・・と思うことが、本来あってはいけないことだが、正直言ってあるものである。しかし、その要求にはなるべく答えなければいけない。今日の出来事がそのいい例である。

ある要求があるとすると(患者さんの要求)、それに対する患者さんの認識と、医者の認識にはずれがある。それは専門知識がないかあるかという違いが一つ。もう一つは、患者さんにとって医者は一人であるため、すぐに要求に答えてくれるのがあたりまえという認識、医者にとって患者さんは数え切れないので、おのずと優先順位をつけて一人ひとりの要求に答えていく。したがって、要求に答えるのが最後になってしまう患者さんは必ずいるわけである。それは、要求を口にしたのが早いか遅いかは問題ではない。医学的な緊急性と重要性に照らし合わせてその順位をつけていく。そうすると当然後になった患者さんは良い思いをしないわけである。でも、それは仕方のないことで、僕は不公平の無いように医学的立場からだけの判断基準で順位をつけていく。そこに患者さんのキャラクターだとか、後で文句を言われるかもしれないだとかいうことを考え始めると、順位のつけようが無いのである。申し訳ないとは思いながらも、いつもこのような悩みを持ちながら診療をしているのである。

しかし、今日のような出来事があると、自分の考えは必ずしも正しくないのかもしれないな〜という気もしてくる。じゃあどうすればいいか?答えは出ないのだが・・・

平成16530

昨日は当直、夜電話をしてみたが特に変わったことは無いらしい。吐き気止めもそれなりに効果はあるようだった。今日は友人が敦賀で開業することになり、その内見会がある日である。当直明けで、帰宅途中に携帯電話のベルが鳴った。自宅からである。帰ってくるのがわかっているのにわざわざかかってくる電話、ろくなことがないのは承知のうえだ。父が変なことになっていなければいいが。案の定、母から自宅に電話があり、父の様子が変だから見てほしいという。急いで帰宅後、敦賀に向かう前に実家によってみた。ここ数日のことだが、僕が実家に行っても、父が寝ている部屋からなかなか出てこないことが多かった。放射線治療もあと3回までこぎつけたのだが、父の気力、体力ともに限界が訪れているらしい。すわっていることもつらいのだという。僕の病院に連れて行き、点滴を2本することにした。ここ2週くらいはほとんど食べることができなかったから、焼け石に水かもしれないが、すこし栄養補給の意味もあってである。点滴には約4時間かかるために父を病院に残し、敦賀に向かった。高速を走っているときに血液検査の結果を報告してもらったが、緊急に何かしなければいけないというようなことはないようである。治療もそろそろ限界だろう。侵襲と患者さんの体力の限界を考えなければ、癌の末期治療といえども結構効果のある治療があるが、やはり身体が持たなくなるんだな〜という基本的なことをはじめて思い知らされた。僕は整形外科医なので、癌の末期治療は全くといっていいほど経験がない。以前治療を始めるときに、外科のD医師や、脳外科のO医師が何もしないという治療もありうる、といった意味がようやくわかったような気がする。あと3回治療できるだろうか?

一度書いておかなければいけないと思っていたことがある。父が「いまさら言ってもしょうがないことだけど・・・」と口にしたことがあるのだ。肺癌であるという診断がつく前のことだ。その6ヶ月以上前から、父は咳と痰である病院に通院していた。しかも、一般的に言う「かなり偉い先生」に診てもらっていたらしい。父の言い分だからわからないが、何回通院しても咳止めと痰を出しやすくする薬しかもらえなかったという。しかもよく聞いてみると、検査はレントゲン写真だけしかとってもらえなかったようだ。専門外の僕が考えても、CTぐらい撮るべきだろうと思うのだがいかがなものだろうか。そのあと、耳鼻科にも行ったらしい。耳鼻科の医師は「耳鼻科の領域には異常がありません」と答えただけであったという。これは医者の責任逃れではないだろうか。最低限でも、患者さんの訴えに対して自分が診察した結果、異常がなくても、次に診察を受けるべき診療科を紹介したり、自分が知っている専門医を紹介すべきではないだろうか。少なくとも僕はそうしているつもりだが、100%そうしているかと質問されると自信がない。6ヶ月早くCTを撮っていたら・・・と思うと残念でならない。父も「いまさら言っても・・・」といいながら、何度か口にしているので無念な思いなのだろう。

結果は変わらなかったかもしれないが、問題があったと僕は考えている。僕は医者だから病院を訴えたりはしないが(これ自体がどうしてなのか自分でもわからないが)、普通の人間だったら、一言文句を言ってもおかしくないと思う。

平成16531

あと3回の治療である。体力的には限界が近い。昨日からは特に様子がおかしく、更に寝ている時間が増えたら。点滴のあとは少し良くなっているようにも見えるが、相変わらず元気がなく食欲もないようである。人間は身体の中の蛋白質が一定以上少なくなると、死にいたるといわれている。放射線治療で消耗することはわかっていたことだけど、これほどまでという認識はなかった。D医師やO医師がなんとなく全脳照射に気がむかないような顔をしていたのは、このことを予測してのことだったのかと、今になって理解することができる。しかし、もう後戻りはできないし、無数の脳転移のMRIを見せられたとき、このまま死を待つという選択肢は自分の中にはなかった。これでよかったのだと思える日が来てくれることを願うだけだが、食欲低下だけは何とかしなければいけない。僕が、実家に行くと父は何とかいいところを見せようと気力で僕に対応してくれているらしい。母に言わせると、いつもは元気がなく寝てばかりだと・・・。

話は変わるが、このエッセイは時々僕の妻も呼んでいるが、私のことはろくなことを書いてないと、先日クレームをうけたので、少しほめておくことにした。昨日はご存知のとおり、点滴を受けるほどの消耗であったが、今日の治療には別に頼んだ訳ではないのだが、送り迎えをしてくれたようだ。父は妻のことを「自分の本当の娘にしたい」と、かなり無理なことや厄介なことを妻に強要していた。それは僕のためを思ってのことでもあったのだが、妻は時々文句を言いながらも、何とかそれをやり通してきた。なかなかの女性である。母は車の免許は持っているが、数十年パーパードライバーでとても安心して運転を任せることはできない。今日のように父、母、妻の3人で病院に向かう姿を想像すると、病気のことはさておいて、なんとも言えずありがたい気持ちになってしまうのは僕だけであろうか。

平成166月1日

今日から6月。いよいよホタルの季節であるが、とても悲しい出来事があった。午前診療の途中に電話があった。診療中にかかる家族の電話は、緊急事態かどうでもいい(診療に比較してだが)内容のことが多い。以前、小学生の娘が「家を出て行っていなくなった」と連絡を受けたことがある。これには参ってしまった。僕は手術の合間で、抜けるわけには行かないし、日没も近い。「とにかく人をたくさん集めて探すように」と指示し、いたたまれない気持ちで手術に臨んだことを覚えている。「あ〜なんでもなければ良いが」と思いながら電話に出る。どうも、今日も妻が病院に送っていこうとしてくれたようだが、今日の消耗状態は一段と激しく、座ることもできず、移動もままならないという。更に、目つきもボーとしてはっきりしないのだという。何とか病院には連れて行ったようだが、このまま入院になるかもしれないという。原因は栄養低下によるものなのかはわからないが、血液検査ではそれほどの異常は示していなかったはずである。ちらりと脊椎転移のことが頭に浮かぶ。妻にこれもしっかり調べてもらうように頼んでほしいと伝える。どうも放射線治療によってまた脳浮腫が強くなったのではないかという。僕の頭の中には脳浮腫という診断は全くなかったので、なるほど、流石に専門家だと感心した。IVHのポートもあるはずなので、高カロリー輸液で少し栄養補給するほうがいいかもしれない。父は入院をとても嫌っていたので(食事がおいしくないらしい)、かわいそうだが今の時期は入院して少しでも元気になってほしい。その間ははにはすこし休養をとってもらいたい。夕刻病院に行くと、父は眠っていた。このまま帰ろうかとも思ったが、声をかけると目を開けてくれた。見かけや対応はかなりはっきりしているが、話しているうちにやはりすぐに目を閉じてしまう。相当疲れているようだ。「治療、よく今日まで頑張ったね」と一言声をかけると、「ひどかった」と一言。これ以上の表現はなかったのだろう、苦しい治療を受けさせてごめんなさいそう心でつぶやいた。

平成1664

最近は吐き気こそ、仰臥位の時には少なくはなっているが、相変わらず食欲はなく、ほとんど口からは食べ物を食べていない。自分から僕に話をするということも少なくなり、放っておくとすぐに寝てしまう。言葉を出すのもつらくなってきたのかと思うと、放射線治療の大変さを改めて思い知らされる。最近思うことは、もしかするとこのまま家には帰れないのではないか?ということである。僕としては、最後は自宅か自分の病院でという思いであるが、放射線治療後一度元気になって1ヶ月でもいいから、自宅で普通の生活をしてもらいたいと思っていた。しかし、現在の状況からすると、自宅には帰れてもとても普通の生活はできそうにもない。自分の身の回りの事を介助下で何とかやって、普段はベッドに横になっているというのが目標になるだろうか。当初の僕の目論見とは相当の隔たりがある。ホタルを観たり、自分の学会発表も見てもらいたいと思っていた。また、もう一度肩の関節鏡視下手術を見たいともいっていたが、その約束も果たしていない。癌という病気は残酷である。病人は勿論だが、家族のわずかな希望までじわりじわりと吸い取っていく。まるで真綿で首を締め付けられるように。こうして徐々に諦めへと変わっていくのだろうか。奇跡を信じたいと思うが、それも難しいかもしれない。

平成1666

先週は娘が中間試験で病院には1週間ぶりに来たことになる。父の憔悴は相変わらずであるが、娘にとっては相当ショックであったらしい。先週入院前に会った時には、自宅で何とか座りながらも話ができた状態だったはずである。それが、今はIVHとバルーン(尿をためるための管)にトレーニングパンツという状態なのである。父の姿をとおまきに見て、少し言葉を交わしたあと娘のほほにポロリと涙が伝わった。娘なりに感じるものがあったのであろう。妻と外でしばらく涙を流したようだ。何を感じたかそれは僕にはわからないが、生きる力に変えていってほしいと思う。

最近父は自分から話すということが少なくなった。また、笑うということもほとんどない。体力、気力によるものか、病気が治らないということを認識し始めたのかはわからない。しかし今日は一度だけ笑顔を見ることができた。妹と孫2人が来たときのことである。二人はまだ小学1年生と幼稚園児で、今日は虫の博物館に行ってきたらしい。父と孫2人は以前この博物館に行ってきたことがあるようで、二人の無邪気な会話や行動をじっと眺めながら、そのときの事を思い出してかうっすらと笑顔を浮かべていたのだ。僕たち大人が、気を使って何かしてあげようとか、どうにかして元気づけようとかいうことは、もしかしたら必要ないことなのかもしれない。父がまだ元気だった頃の楽しかった出来事でも話すと喜んでくれるのかもしれないが、自分たちが涙なしで、二人の孫のように明るく話すことは相当に難しいと思う。

平成1667

放射線治療は残すところ2回。症候性てんかん発症から約2ヶ月が過ぎた。先週の暑さからはうって変わって今日は雨。いよいよ入梅である。相変わらず父の食欲はなく、IVHで多少元気になったようにも思えるが、座ることはできず、咳も多い。暑さはそれほどでもないので、身体の消耗は少なくてすみそうだが、何しろ病院は蒸し暑くうっとうしい。エアコンを入れればいいのにと思うが、病院経営も大変なようでそれも許されない。病人には快適な生活を提供するべきなのだが、今の世の中経営が優先されるらしい。自分が勤務する病院は、その点経営に疎いのかすでににエアコンは入っており、院内で暑苦しいと思ったことはない。したがって、節電して経費を浮かせることは可能なことはわかっているが、何も言わないでいる。

今日気がついたことだ。父には脊椎転移の骨吸収抑制 のために、僕が出しているビスホスホネートという薬がある。これは骨粗鬆症の治療薬であるが、脊椎転移の骨吸収抑制にもある程度の効果があるという報告があり、父にも飲ませていた。放射線科のS先生が「愛情の薬」といったあれである。S先生のこの表現はおそらく、治療効果は本当にあるかはわからないけどね、というニュアンスが含まれているのだろうと僕は勝手に想像している。しかし、何もしないよりはましだと考えていた。しかしこの薬は、胃腸障害、食欲低下、吐き気が副作用として多い。それをてっきり忘れていた。確かに、放射線治療で食欲低下、吐き気があることはわかるが、最近それがひどすぎるのではないかな〜とうすうす感じていた。犯人がビスホスホネートであるという確証はないが、可能性はあるのではないかと思う。皮肉なことに、粉薬はオブラートに包んでも飲みにくくて、たとえ飲んでも吐き出してしまうことが多いのに、この薬だけは毎日確実に服用していたようだ。しかも朝は比較的調子がよく吐き気もないのでなおさらである。明日からは飲まないようにと伝えておいた。

少しでも吐き気と食欲低下が良くなってくれればよいが、もし薬によるものだったとすれば、「愛情の薬」がかえって裏目に出てしまったことになる。何とか回復に向かってくれると良いのだが。

平成1668

今日がいよいよ放射線治療最終日である。よく頑張ったねと言ってあげたい。IVHのおかげか最近やつれた顔が少し丸くなってきたようである。まだ体力的には日常生活を送れるほどではないが、父の気力と体力に期待したい。本当に治療というものは難しい。ある病状に対して、まず何が一番適切かという判断、そしてどの程度まで治療するかである。ここまでは医者の要因で、そのあと患者自身の治癒力で病気そのものが治らなければいけないが、そこには治癒力という身体的要因と、気力という精神的要因も絡んでくるわけである。今の父は、精神的にも身体的にも非常に厳しい状況にある。僕たち家族にできることそれは見守ることだけかも知れない。

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