第8回 「善行一筋に生きる ―見返りを期待しない―」



無智亦無得(むちやくむとく)
以無所得故(いむしょとくこ)


今回も、これまで同様、「無」という言葉が登場します。般若心経における「無」とは、万事が変化していく実体なきものであるが故に、「執着してはいけない」という意味を持った言葉でした。

ここでは、「無智」であり、亦(また)、「無得」とあります。「智」とは「智慧」のことで、真実を見抜く力のことです。「智慧」と同じ意味を持つ仏教用語が「般若」です。

智慧始め、此岸(しがん)(この世)に生きる我々が、少しでも彼岸(ひがん)(仏さまのお悟りの世界)を見習い、此岸で彼岸を実現していく6つの修行方法があります。それを「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼ばれています。

下記に六波羅蜜をまとめてみました。

布施(ふせ) 周囲の存在に対して、皆が安心し、喜べるような言葉や行いをやり取りしていくこと
持戒(じかい) お釈迦様のみ教えに従って、毎日を過ごすこと
忍辱(にんにく) 我が身に降りかかるご縁や周囲の存在に対して、自分の好悪で関わり方を変えるのではなく、すべてを受け入れていくこと
禅定(ぜんじょう) 自分の心が乱れそうになったら、つとめて安定させるように心がけること
精進(しょうじん) 悪を断ち、善を修することを生涯に渡って続けていくこと
智慧 仏さまの悟りの眼で物事を見ること

これら6つはどれも関連しあっています。たとえば、お釈迦様のみ教えに従って毎日を過ごす(持戒)ことは、悪を断ち、善を修して生涯を過ごすこと(精進)でもあります。ですから、どれか一つを修行すれば、自然と他の行を修することになっていくのです。

言うまでもなく、六波羅蜜だけで仏さまのお悟りの世界を捉え尽くすことはできません。もちろん、六波羅蜜はお釈迦様から伝わる正しいみ教えであることには変わりありませんが、お釈迦様の数あるみ教えの一つであり、そこに踏みとどまってはいけない。一本の道に捉われないというのが、「無智」・「無得」の意味するところです。

次に「無所得」に触れておきたいと思います。得るものがないということなのですが、「見返りを期待しても、自分の思うような期待は得られない」という意味で捉えておくとよろしいかと思います。

般若心経の中で「無」と同じ意味で用いられているのが「空」です。空は「無常」を意味し、万事が絶えず変化を繰り返していくはかない存在であるということを意味しています。すべてが「空」であるならば、当然、修行の結果も「空」となります。ですから、何か我が身にいいことが起きるのを期待して修行に励んでも、自分の期待通りにはなりません。それが「以無所得故」が指し示すことです。

そうは言いながら、我々はいいことをしたら、自分の評価が上がらないかとか、周囲に誉められないかなどと、ついつい何かいいことが起こることを期待してしまいます。しかし、そんな願いは叶うものではありません。そもそも善行というのは、そうした期待感を持って行うものではありません。なぜなら、善行そのものが尊いものなのです。それなのに、何をそれ以上に期待することがあるのでしょうか・・・!見返りを求めようと、余計な期待を持つから、評価が上がらないとか、周りから褒められないなどと、自分の中で勝手なマイナス物語を作り上げては、苦しまなければならなくなるのです。

余計な見返りを求めずに、目の前のご縁を大切にしながら、善行一筋に生きていけばいいのです。