第8回 「無功徳(むくどく)


「自分の行いに対して、見返りを求めない」



―時代は6世紀―

仏教に帰依(きえ)していた(りょう)武帝(ぶてい)達磨大師(だるまだいし)に質問しました。
「私は今まで寺を建て、僧侶を育成しながら仏教を信仰してきました。果たして私はどんな功徳を得られるのでしょうか?」
その問いに対する、達磨大師のお答えが―「無功徳」だったのです。

篤き仏教の信仰者として、ときには、財を費やしながらも、仏教興隆に力を注いできた武帝に達磨大師が提示した「無功徳」というお答えの意味―それは「もし、何かをいい結果が起こるのを期待して善行に励んだのならば、そこには真の報いはありませんよ」ということです。仏教興隆のために、寺を建て、僧侶を育成すること自体が尊い行いです。そこに計り知れない大きな功績があるにも関わらず、なぜ、それ以上の何かを求めようとするのだろうか?求めたところで、何も得られるはずがないということなのです。

我々はいいことをしたら、周りの人から誉められたいなど、何かいい反応(見返り)が来ないかと期待してしまいます。自分の行いがいいと思えば思うほど(自分の行いに酔えば酔うほど)見返りを期待する気持ちが強くなるのです。

しかし、自分の行為が「善行」だと思い込んでいるのは、自分だけかもしれません。もしかしたら、相手は「うれしいことをしてもらった」とは思っていないかもしれません。その思い込みは、あくまで自分の欲や執着心から生ずる自分勝手なものでしかありません。「善行」というのは、何度かお話させていただいております“愛語(あいご)”同様、双方向の働きによって、お互いに報われて始めて成り立つものなのです。

“真の報い”―それが「功徳」です。世間を喜ばせて目立とうなどと、自分に必要以上のことを求めるような貪りの心を慎み、まずは、相手を思いやる優しさや思いやり(慈悲心(じひしん))を育てるのです。そんな思いやりから湧き出る言葉が愛語となり、「善行」となります。そして、そうした慈悲心からにじみ出る言葉や行動が相手の心を揺さぶるのです。そこには何か期待するような打算的な考えはありません。ただただ、相手に対する慈悲しかないのです。そして、それさえあれば、それ以上のものを求めることなく、それだけで十分に満足できるのです。