第9回 『「到彼岸」への道しるべ』


菩提薩(ぼだいさった)
依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)
心無(しんむけいげ)
礙故(むけいげこ)
無有恐怖(むうくふ)
遠離一切?倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)
究竟涅槃(くぎょうねはん)
三世諸仏(さんぜしょぶつ)
依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)
得阿褥多羅三貘三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)


今回は、やや長い引用となってしまいましたが、一つ一つ丁寧に読み味わってまいりたいと思います。

冒頭の「菩提薩?」は「菩薩(ぼさつ)」のことです。悟りを求め、日々、修行に励む者を意味しています。身近なところに目を向けると、「菩薩」と呼ばれる仏様が幾多もおいでることに気づかされます。たとえば、観音様は正式には「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」と申します。また、お地蔵様は「地蔵菩薩(じぞうぼさつ)」です。

先日、NHKの「さし旅」という番組で、アイドルの指原莉乃さんが仏像巡りをしながら、僧侶から仏教に関する知識を教えていただいておりました。その番組の中で僧侶が指原さんら出演者に「菩薩というのはアイドルでいうところの研修生です」と説明する場面がありました。非常にわかりやすい説明ではないかと思います。

こうした菩薩様に対して、「如来」とは、悟りの世界に到達し、悟りを完成させた仏様のことを指します。いわば、彼岸(ひがん)の地に到った、「到彼岸(とうひがん)」した仏様のことです。そうした如来として知られるのがお釈迦様(釈迦無尼如来)や阿弥陀様(阿弥陀如来)です。

本文に戻ります。そうした「『菩薩』たちが『般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)』に依っている故に」とあります。「般若波羅蜜」とは、「到彼岸できる力」のことです。つまり、悟りの世界に到達できる力のことです。

日々、修行に励む菩薩たちは、そうした力を持っているから、「心無?礙、無?礙」だと言います。ここに出てまいります「?(けい)」とは「傷」のことです。「()」とは「引っ掛かり」、つまり、「執着」を意味します。到彼岸の力を有した菩薩は心を束縛し、人間を真実の道から遠ざける執着心がないというのです。さらに「無有恐怖」とあるように、恐れるものすらないのです。何に対しても執着心がないということは、自分をかわいがろうという気持ちが起こりません。さらに自分よりも他人を優先したからといって、損したような気持ちも起こりません。ですから、いくらでも他に救いの手を差し伸べることができるのです。また、世の無常もよく悟っておいでますから、いつか我が身に訪れる死に対する恐怖もないというのです。いくら修行の身とは言え、「到彼岸」の力を有した菩薩の力とは、簡単には測り知ることのできない、偉大なものだということに気づかされます。

次に、「
遠離一切?倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)とあります。迷いや執着に惑わされやすい現実世界「此岸(しがん)」から「彼岸」へと遠く離れ(遠離(おんり))、今まで此岸で培ってきた価値観を一度、逆から見つめなおしてみることをお示しになられています。そして、それを通じて、「到彼岸」の道しるべをお示しになっております。何かと自分を惑わす日常の喧騒から遠く離れて、自己を見つめなおす・・・。言わば、今までの習慣やものの見方・考え方という自分のメガネを外して、仏様のメガネをかけて、周囲を見渡してみるのです。そうした行を通じて、「此岸」から「彼岸」へ渡ることができるというのです。「究竟涅槃」とは、悟りの世界に完全に到達し、永遠にそこに入ったことを言います。

「到彼岸」できるのは何も「菩薩」だけではありません。「三世諸仏(さんぜしょぶつ)」もまた、そうした力を有しているのです。「三世」とは、「過去・現在・未来」のことを言います。そこに現れる全ての仏様が「三世諸仏」なのです。そんな「三世諸仏」もまた、悟りの世界に入っているのです。

常軌を逸した殺人事件や、近年、世間を賑わせているあおり運転の問題等、我々が過ごす此岸には、彼岸の「菩薩」や「三世諸仏」とは逆の道を歩む「執着心が強い、自己中心的な人」がたくさんいます。だから此岸は荒れるのです。こうした現状に心痛めるならば、少しでも「菩薩」や「三世諸仏」を見習っていくことが必要ではないかと感じるところです。