第8回 「“口動”ではなく、“行動”を」
そんな懺悔ですが、決して、簡単にできるものではありません。なぜならば、いくら言葉で反省の言葉を示しても、それが行動として現れなければ、懺悔とは言えないからです。反省の言葉は誰でも言えます。しかし、反省を行動に示すのは、そう簡単にできることではありません。
日頃の自分を振り返るとき、どうでしょう?―「いかに口先だけの反省が多いか」と呆れてしまうことがありませんか・・・?私自身、そんな瞬間が多々あります。そんなとき、少しでも「口先だけで反省するのではなく、行動に現していく。そうやって、二度と同じ過ちを繰り返さないようにしていきたい」と心に誓うのですが、なかなか難しいものです。とは言え、懺悔を意識して、二度と同じ過ちを繰り返さないことを自他に強く誓うと同時に、少しでも我が身心を磨き、きれいに保ち続けていきたいものです。
そうしたきれいな心による懺悔が行動に現れれば、周囲が変わるのです。前回のお話にもありましたが、自分から変化しなければ、周囲が変化することはありません。それなのに、人間は自分が変化しようとせず、相手を変化させようとするのです。これぞ、まさに自分への執着であり、自分の考えや主張が正しいと思えば思うほど、自分に酔ってしまい、さも自分が正しいと言わんばかりに、相手に自分の思想を押し付けてしまうのです。
しかし、いくらこちらの主張を通そうとしても、相手は変化しません。なぜなら、相手にも相手の考えや主張があるからです。だからこそ、「こちらから変化しよう」と道元禅師様はお示しになるのです。汗を流し、苦悩しながら、自分から変わろうとする姿が相手の心に変化を与えます。そうやって相手が変化するのです。“口動”ではなく、“行動”を―それが懺悔の鉄則であり、仏教全般に通ずる根本思想なのです。
そうした行動による懺悔の力が普く全てのものを変化させていくというのが、「其利益普く情非情に蒙ぶらしむ」が指し示すお教えです。「情」というのは、いのちある「生物」のことですから、「非情」とは、その反対の「無生物」を意味しております。生物・無生物の分別は一切ありません。それは私たちが自分の頭の中で作り上げた区別でしかないのです。誰であろうが、どんな状況であろうが関係ありません。自ら変化し、自ら行動することで、懺悔の功徳が拡がって行くのです。
相変わらず様々な問題を抱える今日の世相―少しでも多くの人が「行動」による懺悔を修行することで、明るく穏やかな暮らしが訪れること願うばかりです。