第9回 「ほとけの
願わくは我れ
障道
仏道に
我を
学道障
悪事を働けば、罰が当たるのでしょうか・・・?
—娘が1歳の頃のお話です―
保育園に迎えにいったその日は、ちょうど「花まつり(4月8日のお釈迦様のお誕生日)」でした。保育園の玄関先には誕生仏(生まれたばかりのお釈迦様を模した仏像)が安置され、保護者が甘茶をかけて、お参りできるようになっていました。
娘と一緒に誕生仏に甘茶をかけてお参りしていた私のところに、あるお母さんがやってきて、「仏さまに甘茶をかけたら、何かご利益はありますかねぇ・・・?」と尋ねてこられました。
いつもとは違って、玄関先に仏様がおいでるわけですから、何かしなければ、罰が当たるのではないか・・・?そのお母さんはそう思われたのでしょう。そうした考え方は、仏事だけではなく、日常生活の中にも見受けられます。たとえば、嘘をついたり、食べ物を粗末にしてしまったりすれば、罰が当たるのではないかというのは、今も尚、根強く残っている考え方のようで、そうした質問はしばしば耳にいたします。
確かに、小さい頃、お年寄りから、「嘘をついたら、閻魔様に舌を抜かれる」などと教わった経験は誰しもあるかと思います。科学技術が発達した現代において、そうした昔からの言い伝えは、「迷信」と捉えられがちになっていますが、昔の人たちは、そうした両親や祖父母から聞いた言い伝えを信じることで、自分を律してたのです。言わば、言い伝えは“人々の暮らしに密着した信仰”ともいうべき大切な教えであり、そこには確かな根拠はないものの、人々は言い伝えを大切にし、悪事を働けば、仏さまから天罰が下るのではないかと考えていたのです。
さて、悪事を働いたら、仏様から罰が下されるのでしょうか・・・?答えは「NO」です。仏様は我々が悪事を働いたからといって、即座に罰を下すようなことはいたしません。凡夫(我々人間)は誰かに失礼なことをされれば、立腹したり、無視したりするかもしれません。しかし、仏様、「諸仏諸祖」はそんなことでは怒りません。諸仏諸祖は「仏道に因りて得道」されていらっしゃるわけですから、相当な修行を積まれ、悟りを得て(人間性を完成すること)いらっしゃいます。ちょっとやそっとのことで惑わされたり、怒りをあらわにしたりはしないでしょう。たとえ、私たちが過去に数知れぬ罪を犯していたとしてもです。
では、仏さまは、数知れぬ罪を犯してきた我々(過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも)に対して、どのような態度をお示しになられるのでしょうか・・・?
それが「我を愍みて」という箇所に表されています。「あわれんでいる」のだと・・・。つまり、せっかく“仏性”というすばらしいものをいただいたのに、それに気づかず、生かそうともしないこと我々に対して、また、たとえ悪事を働いたとしても、懺悔という自分を改善する方法があるのに、それをしようともしないことに対して、「何ともったいない・・・。残念だなぁ・・・。」と、がっくりと肩を落とされるのです。“あわれみ”―それが修行を積まれた「仏さまの眼」なのです。
この諸仏諸祖の“あわれみ”の眼こそが、人を懺悔へと導くのです。罪を犯したことに対して、一方的に怒ったり、無視したりしても、人は真剣に反省しようとは思いません。自分があわれみの眼で見られるから、人はしっかりと罪を悔い改め、二度とあわれみの目で見られないように、自分を変えていこうとするのです。
怒りや無視という方法しか知らない我々凡夫にとって、こうした“あわれみ”という「仏さまの眼」こそ、身につけたいものです。人を説得し、教え導くとき、“あわれみ”が導く側と導かれる側を共に成長させていくのです。そのことをここで押えておきたいと思います。