第10回  「恵まれた生涯をいただいた私たち」


生死(しょうじ)の中の善生(ぜんしょう)最勝(さいしょう)の生なるべし
最勝の善身(ぜんしん)(いたづ)らにして
露命(ろめい)無常(むじょう)の風に任すること(なか)



前回もお話しさせていただきましたが、今我々が、人間として日々を過ごし、仏法とご縁を結ぶことができたのも、我々のご先祖様たちの善き行いの積み重ね(宿善(しゅくぜん))のおかげでした。

さて、今回は「
無常」という言葉が出てまいりました。日本人は「無常」という言葉を耳にすると、「平家物語」の冒頭の一句(「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり」)を思い浮かべるのか、強き者が滅んだり、あったものがなくなったりと、どこか寂しさや空しさを感じてしまいますが、諸行無常とは「万事は絶えず変化する」というこの世の道理です。一口に変化と言っても、様々あります。いい変化もあれば、悪い変化もあります。しかし、変化の良し悪しを決めてはいけません。そうした自分の好みに執着することによって、人は真実(本来の姿)をありのままに見ることができなくなってしまうのです。

私たちが生かされている人間社会は時間の流れがあります。それゆえに、そこに存在する全てのものは変化していきます。我々のいのち(人生)も絶えず変化するわけで、この世に生まれれば、老いや病に苦しみながら、いつかは、死を迎えます。仏教では、生老病死(しょうろうびょうし)の4つの苦しみを総じて「四苦(しく)」といいますが、それは、誰も避けることができません。

しかし、そんな苦しみも、そこから生じる迷いも、ご先祖様の善行の積み重ね(宿善)によっていただいたありがたい「ご縁」なのです。大切なのは、そのご縁に私たちがどう向き合っていくかということです。見方を変えれば、老いや病という苦しみを経験するから、自分の
生死を見つめ直すことができるのです。そして、その過程で遭い難き仏法とも巡り会うのです。

人生の中で、人間は自分にとって嫌なことや辛いことを経験します。しかし、何かのきっかけで、嫌なものが好きになったり、辛いことが楽しくなったりして、「救われた」とか「成長できた」と素直な気持ちで思えるならば、嫌な経験も辛い経験も悪いことではなかったことに気づかされます。「マイナスをプラスに転じる。」―仏法の力によって万事をよき方向に捉え直すことができたらと願うものです。

私たちがそんな「マイナスをプラスに転じる」ことができる力があることに気がつけば、実は自分が幸せな道を歩んでいることに気づくはずです。誰もが経験する四苦という苦しみは、仏法の力をお借りして、自分の観方さえ変えることができれば、たちまち小さくなっていくのですから!!

それなのに、我々は、自分たちが満たされていることに気づくことなく、目先の事実を誤った見方で捉え、不平不満を募らせるのです。「生死の中の善生、最勝の生なるべし」とありますが、日常に不平不満を抱えた我々凡夫に対して、どんなに欲望や執着で迷うことがあっても、「マイナスをプラスに転じる」力を持った人間は、よく恵まれた、すぐれた生涯を送ることができるんだということを強く訴えたお教えなのです。

そんな恵まれた、すぐれた生涯をどう生きていくかと言えば、惰眠を貪って、時間を無駄に過ごしたり、悪事を働いて、いただいたいのちを誤って使うような生き方をするのではなく、お釈迦様のお示しに従いながら、少しでもお釈迦様に近づけるように自分を磨いていけるような生き方を心がけていきたいのです。「露命」という言葉が指し示すように、我々のいのちは、いつどうなるかわからない、露のしずくのようなもので、常に無常という風にさらされています。その風にときには身を任せることも必要かもしれませんが、いつも風にさらされてばかりいるような受動的な態度であってもいけません。能動的かつ主体的に生きることも必要です。すなわち、何が自分にとって満足のいく道なのかを模索しながら、後で後悔することがないように自分の道を歩くことが大切です。それが無常の風にさらされた露のごときはかないいのちを生きる上で必要なことなのです。「最勝の善身を徒らにして無常の風に任すること勿れ」とは、「無常」という条件の中で、我々がどうやって歩むべきかを指し示したお教えなのです。

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