第11回 「生きる目標―成仏(じょうぶつ)―


仏祖(ぶっそ)往昔(おうしゃく)吾等(われら)なり
吾等が当来(とうらい)は仏祖ならん


悪事を犯した人間に対して、仏さまのように、あわれみの眼で接することができるかと問われれば、難しいのではないかと思います。仏さまのお悟りの境地に達するまでには、まだまだ修行が足りません。それが今の自分です。


今回の「仏祖の往昔は吾等なり。吾等が当来は仏祖ならん」という一句では、そうした我々ではありますが、実は仏さまになれる可能性を秘めていることを示唆していると共に、仏さまと呼ばれる方々も、最初は我々と同じ人間だったということが示されています。

そもそも、お釈迦様にしろ、道元様や瑩山(けいざん)様にしろ、我々と同じ人間です。そうでありながら、仏道修行に励み、仏性を磨き続けてきたからこそ、仏となられ、祖師と呼ばれるまでに至られたのです。ということは、我々も仏さまと同じように仏道修行に精進するならば、たとえ悪事を犯したことがある者でも、二度と同じ過ちを繰り返さないことを誓い、仏さまに近づいていこうと日々を過ごすことならば、仏さまのお悟りを体得できるときがやって来るというのです。また、悪事を働いたものに対しても、いつかは仏さまのように接することができるときがやってくるというのです。

最初から仏さまのような優れた人間はいません。誰もが最初は欲をコントロールすることができなければ、すぐに怒りや貪りの感情を表してしまうような凡夫(ぼんぷ)だったのです。ところが、祖師方は長年の間、坐禅を中心とした禅の修行を行ない続けたことで、人間性を高め、仏さまになられたのです。そこが我々、凡夫との大きな違いなのです。

成仏」という言葉があります。この言葉は、死後の世界の言葉だと思われがちですが、本当は、むしろ生きている今の言葉なのです。「成仏」を読み下すと、「仏にる」となります。つまり、お釈迦様や道元様・瑩山様のように、“人間性を完成させる”ということです。この「成仏」こと「人間性の完成」が、我々の生きる目標なのです。この世で最期を迎えるまでの間、少しでも人間性を完成させるべく、「成仏」を生きる目標として日々を過ごしていきたいものです。

「仏祖の往昔は我等なり、我等が当来は仏祖ならん」―この「成仏」の可能性を示唆する一句を、私は自らに念じ込み、常に忘れずに日々を過ごしております。この一句をいつも心の中に持って、少しでも「成仏」できるように、日々を過ごしてまいりたいものです。