第11回 「
菩提薩婆訶
終了
いよいよ最後までやってきました。早速、本題に入ります。
前回は「仏のメガネをかける」という演題で、我々凡夫が悟りを得た仏のものの見方を身につけるならば、日常生活のあらゆる苦しみが取り除かれるというお話をさせていただきました。
そうした私たちが仏として生きていくことを自らに誓う「呪(まじないの言葉)」が今回、提示されている「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦」です。これが意味するものは「往ける者よ、往ける者よ、(みんなで手を取り合って)彼岸の地へ行こう」というものです。
私は、この真言に触れるたびに、若かりし頃の自分の愚かさを思い出しては、反省しております。
平成17年(2005年)3月、私は住職をつとめる高源院の本寺・石川県羽咋市の永光寺様でお世話になっていました。ある日、海外からの留学生が数名、日本の文化を体験するということで、永光寺へ坐禅と写経の体験にいらっしゃることになり、その応対をさせていただきました。写経を行うに当たって、私は「般若心経」をお手本に選びました。しかし、経典に使われる難しい漢字は日本人でも書き取りに四苦八苦するものばかりで、生まれも育った環境も異なる留学生が書くのは大変ではないかと思った私は、終わりの部分だけを書くことにしました。それがこの「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦」でした。これを留学生たちに提示して、書いていただきました。留学生たちは思ったよりも四苦八苦することもなく、丁寧に書いておられました。
そんな中で、お一人、男性の留学生で、早く書き上げた方がおいでました。そして、彼は他の留学生たちが丁寧に写経に励む傍らで、私に質問を投げかけてきたのです。
「今書いたお経は、どんな意味なのですか?」
私はそれまで永光寺で留学生と共に写経を行った経験が何度かありました。たいていは時間内にかきあげるのに精一杯で、留学生から質問を受けたことはありませんでした。おそらく今回もそうなるだろうと思い込んでいた私にとって、質問が出てくることなど、想定外でした。
そんな私ですから、当然彼の質問に答えられるだけの準備もしておらず、驚くと同時に、どう答えていいかわからず、戸惑ってしまったのです。
結局、私は「わからない」としか言えませんでした。そんな私に彼は、それ以上何も問いかけてくることはありませんでした。彼にとって、日本で経験する色々なことが珍しくて興味深いものだったに違いありません。きっといろんなことを学びたいという気持ちが強かったのではないかと思います。しかし、そんな彼の気持ちに私は何も答えることができませんでした。せっかく日本の文化に興味を持ち、積極的に学ぼうとしている彼に、私は何もできなかったのです。
この経験は私にとって、これからの僧侶としての生き方を考えさせてくれるよききっかけとなりました。僧侶として、また、三宝に帰依し、仏道を行ずる者の一人として、どんな質問を受けても、しっかりと答えられるように、普段から準備(修行)しておくこと。そして、絶対に相手を失望させるようなことがないようにすること。この二つを誓ったのです。一人の留学生とのやり取りは、私に自戒を促し、私を目覚めさせてくれました。私にとって、そうした思い入れのある真言です。
そんな真言を唱えながら、彼岸の世界(悟りの世界)へ皆で向かおうではないかというわけですが、彼岸は決して遠い世界でも、非現実的な世界でもありません。実は、我々がいのちをいただいていかされている此岸こそ、実は彼岸なのです。
道元禅師様は「一切衆生悉有仏性」とお示しになりました。この世に存在する誰もが仏性(仏のお悟りに近づける性質)を持っているというのです。誰もが皆、仏性を有するのですが、凡夫ゆえに、ついつい周囲の誘惑に負けて、仏の道から逸脱するのです。
そんな私たちでも、常に自分を省みながら、自分の中に眠る仏性を磨き続けていけば、凡夫の此岸から仏の彼岸へと近づいていくのです。すなわち、此岸において、彼岸に到るのです。実は娑婆世界こそが彼岸だった―それが「彼岸到」ということです。要は我々の過ごし方一つで、「今、ここ」が彼岸になるということです。様々な問題を抱えた娑婆世界ですが、それを住みよいものにするかどうかは、そこに住む我々次第ということなのです。
本文の最後は「般若心経」と結んでいます。この経典のタイトルです。これは、この経典が悟りの地に行くための方法が記されたものであるということを意味しています。万物はすべて変化し、形なきものでした。形があると思い込んでいるのは人間の勝手な考えなのです。
そして、それが般若心経の約270文字が指し示すみ教えなのです。