第12回 「限りあるときを生きる上で」
尋ねんとするに
無常の風にさらされて生きる我々の中で、「いつまでも若いままでいたい」と願い、若さを保とうとしても、そんな願いを叶えられる人は誰一人としていません。若いときの艶やかな面影も軽やかな肉体も年齢と共に変化していくものなのです。それが「老い」の苦しみです。自分の身体だと言いながらも、現実には思い通りに動かせるものではありません。
今から6年前、当時30歳だった私は閉ざされた柵を乗り越えようと、柵に手をつき、思い切り足を上げました。自分では柵を乗り越えられると思っていたのですが、いざやってみると、足に今まで体験したことのない激痛が走り、しばらく痛みに苦しみました。このとき、私は確実に身体が年齢と共に老いていることを知って、ショックでした・・・。それが無常の風にさらされるということなのです。まさに「身巳に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し」というお教えを体感した瞬間でした。
続いて経典は「紅顔いずくへか去りにし 尋ねんとするに蹤跡なし」とあります。「紅顔」は若き日の初々しい顔形や肉体を意味します。「蹤跡」は足跡または、先人たちの功績を意味します。
テレビで昔のドラマや映画を視る機会があります。たとえば、今や初老を迎えた俳優さんの初々しい姿を見ながら「年取ったなあ、あの頃の面影がなくなったなあ」と感じたことがあるかと思います。
しかし、それはブラウン管の世界の中だけで起こる現象ではありません。テレビを見ている我々だって、同じように年齢を重ね、若き日の面影がなくなっていくのです。「熟(つらつら)観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し」とありますが、自分の変化に気づき、焦りを感じながら、いくら若い頃に戻りたいと思っても、それは不可能だと、過去を後悔して、今を嘆くことを戒めているのです。
数年前に東進予備校の林修先生の「今でしょ!」という言葉が流行しました。「今でしょ!」はお釈迦様もお示しになられたみ教えなのですが、私たちはどうがんばっても今しか行動できません。今を嘆き、消極的に生きるのではなく、今をしっかりと精進努力して、後悔することがないよう、一日一日を大切にしながら、積極的に過ごしていきたいものです。
時間というのは我々の願いにしたがって早くなったり、遅くなったりすることはありません。ましてや止まることもありません。一定のスピードで流れていくだけです。加えて、一人一人に与えられた時間は有限です。それは、言い換えるならば、我々に寿命があるということです。そんな限りある時間の中で、「時間の浪費」は「いのちの浪費」であるということを念頭に置かねばなりません。
限られた時間と共に生きる中で、「生を明らめ、死を明らむる」ためには、「変化に捉われないこと」、 「有限の時間を無駄に過ごさないこと」―この二点を十分に踏まえていくようにと、ここではお示しになっているのです。