第13回  「執着をやめる」


無常忽(むじょうたちまち)ちに至るときは
国王大臣親(こくおうだいじんしん)ジツ従僕妻子珍宝(じゅうぼくさいしちんほう)たくすくる無し
唯独(ただひと)黄泉(こうせん)に赴くのみなり

「無常の風」にさらされて生きていくとはどういうことか?それはこの世に生を受けた者は、時間の流れの中で変化し、老いを迎えて、病に苦しみ、最期には死を迎えるということでした。前回はその具体例として「老い」に関するお教えが説かれました。今回は「死」に関するお話です。

誰もが最期に必ず「死」を迎えるものの、その瞬間を迎えるとき、いくら死にたくないと願っても誰も助けてはくれません。それが「無常忽ちに至るときは国王大臣親ジツ従僕妻子珍宝たすくる無し」の意味するところです。「従僕」は使用人、「妻子」は妻や子ども、「珍宝」は宝のことです。心の内を話し合える親友であろうが、毎日手厚く看病をしてくれた病院の看護師さんや家族であろうが、生前、必死にためた貯金や財宝であろうが、死んでいく自分を救ってはくれないのです。何一つとっても死に逝く人間の前では無力であり、人間はたった一人で死んでいかねばならないのです。それが「唯独り黄泉に赴くのみなり」の意味するところです。「黄泉」とは、「冥土」や「来世」のことで、死者が向かう場所です。この世に一人で生まれた人間は一人で死んでいくのです。

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歳のとき、将来の国王としての保障された地位や宮殿での満たされた生活など、お釈迦様は全てを捨てて出家され、修行者の生活を始められました。6年後、35歳のときに成道(お悟りを開くこと)されたお釈迦様は、80歳で涅槃に入られる(お亡くなりになること)まで、どこかに定住することなく、一切の私物を所有することなく、ご自分のお悟りを布教する旅を続けられ、多くの人々に救いの手を差し伸べてまいりました。

こうしたお釈迦様の生涯からは、お釈迦様ご自身が家に住み、自分のモノを所有することは、煩悩(貪り・怒り・愚痴)を生み出し、執着や不要な苦しみの原因となることを悟っていらっしゃったことが感じられます。すなわち、「これは自分のモノだ!」と思い込んでも、煩悩が生じて自分を苦しめるだけで、それならば、「自分の〜」ととらわれることを止めてしまえば、どん心穏やかに過ごしたいとなるのです。

こうした考え方は、今回のような「何一つあの世についてきてくれるものは存在しない」というみ教えに触れてみると、何か感ずるものが出てくるように思います。実は我々の身の回りにある「私物」と思っている全てが、自分の思い込みによる「私物」であって、本当はこの世に生きている間だけの借り物だったんだということに気づきます。つまり、何一つとして「私有財産」はないのです。だから、そんなものに執着して苦しい思いをする必要はないとお釈迦様は説くのです。

一度、自分自身の日常を振り返り、何かモノに対して執着しているのであれば、ストップしてみます。きっと心が気楽になっていくはずですから・・・。