第14回  「(ごう)  ―私たちの“行い”の行く先は―


(おのれ)に随い行くは、只是善悪業等(ただこれぜんあくごうとう)のみなり

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「ただ一人黄泉に赴くのみなり」―それは、人間は一人であの世に旅立つということでした。死を迎えるとき、いくら死にたくないと願っても、助けてくれる人は誰もいません。また、いくら貯金をためても、高級外車やブランド物の洋服や宝石を持っていたとしても、いっしょにあの世へ持っていくことはできないのです

しかし、唯一あの世に持って行けるものがあると言います。自分が持っていくというよりも、自然と付き従ってくるということなのでしょうが、それが今回のキーワードである「業」です。「業(カルマン)」とは、「我々の行い」のことです。単純に行いには「善い行為」と「悪い行為」があります。古代インドでは「善い行いをすれば、将来、よい結果(善報)に恵まれ、悪い行いをしてしまえば、悪い結果(悪報)をもたらす。また、今の自分の幸不幸は前世における善行や悪行の結果である」と考えられていました。「己に随い行くは只是善悪業等のみなり」という今回の一句は、死によって自分の身は滅びても、自らの取った善業と悪業は付き従ってくるということを説いています。

お釈迦様は「業」は人間の身口意(身体・言葉・心)から生じ、「業」によって人間の社会が築かれていくと説きます。すなわち、私たち人間は身体・言葉・心という3つの要素で成り立っているのですが、それら3つの要素から生み出された「業」によって、私たちの日常生活が築かれていくのだというのです。

こうやって見ていくと、難解なイメージが付きまとう仏教の中で、一見、業の思想は簡単そうに見えるのですが、このインド特有の思想を解釈するのは難しく、誤解が生ずることもありました。

たとえば、身体に障がいを持っている方に対して、障がいを不幸と決めつけ(宿命論)、「その不幸は前世の行いの結果である。来世は幸せになりたいと願うならば、仏に帰依しなさい」等の法話が過去に日本の宗教者の口から発せられていたという事実があります。仏教は「今をどう生きるか?」を説くみ教えです。現世において善行を積み、よき人間になることを目指すのですから、前世(過去)の行いが悪ければ、二度と同じ過ちを繰り返さないように誓い、よき行いを心がけていけばいいのです。自分のものの見方や考え方を仏様のものに近づけ、積極的(前向き)に生きていくことが仏教の立場ですから、こうした業の思想に宿命論を結びつけてしまうと、人間として正しく生きていくための思想が誤った差別思想になってしまうことに私たちは注意を払わなければなりません。

私たちは様々な存在と関わり合いながら日々を生かされています。それを「衆縁和合」と言いますが、それゆえに、何事も思い通りには進みません。ですから、何か自分にいいことが起こるのを期待して善行に励んでも、すぐに結果は出ません。むしろ、そうした見返りを求めている間は、いつまでも善行の報いが熟することはないでしょう。

「異熟果」という言葉があります。最初は青かった柿の実が太陽の光を浴び、季節が変化していく中で赤くて食べ頃の実に変化いていきます。最初の状態とは違った、思いがけない結果が訪れるのが「異熟果」なのです。

したがって、いいことをしたからといってすぐにいい結果が起こるわけではなく、悪いことも起こります。逆に、悪事ばかり働いている人間でもいいことが起こる場合もあります。しかしながら、果実は時間が流れていく中で確実に熟します。善行も積み重ねればよき果実となります。悪行は積み重ねれば悪しき果実しか実りません。それが「業」なのです。

身口意の三業から生ずる自らの業(行い)は、周囲との関わりの中で、様々な影響を受け、いいこともあれば、悪いことが起こるときもあるものの、善行は善報を、悪行は必ず悪果を招きます。そして、自らの業は終縁和合の中で、他にも影響を及ぼします。そうした「業」という思想を正しく捉えながら、少しでも仏様に近づき、みんながいい方向に進んでいけるように日々を過ごしていきたいものです。