第4回  「百花春至為誰開(ひゃっかはるいたってたがためにかひらく)


花のように、見返りを求めずに生きていく


若い頃は花に対して、さほど興味がなかった私が、高源院の住職を拝命した頃、殺風景で何もないお寺の境内に、きれいな花があったらお参りにいらっしゃった方の心が和むのではないかと思い、花を育ててみたことがありました。チューリップ、ユリ、ホウセンカ・・・。境内に色々な花を植えてみました。花にはそれぞれ特徴があり、色や形、花を咲かせる時期などが違います。また、水の与え方、肥料の与え方など、育て方も違います。しかし、それぞれ自分たちの個性を発揮しながら、一生懸命、花を咲かせ、最期には、自然と枯れていくという点では、皆、同じです。

こうして花を育ててみて気づいたのは、花の習性でした。水を吸い、陽の光を浴び、空気に触れながら・・・。それらを縁として、種が花となって咲き誇り、いつかは、散って枯れていくのです。花は誰かに見てもらうために花を咲かせるのではありません。

我々、人間には自分が周囲の人によく思われたとか、評価されたいと思うがあまり、何かいいことをするというような、見返りを求めるところがありますが、花は周りによく見られようと思って、きれいな花を咲かせるのではありません。ただ、自然の流れに従って無心に咲き、無心に散るだけなのです。まさに、無常というこの世の通りの中で、その習性に従って生きているのです。

こんな花のような生き方を、ついつい見返りを追い求めてしまいがちな我々人間こそ見習っていくべきなのではないでしょうか?

もう一つ、花を通じて、押さえておきたいことがあります。

それは、いのちというものは最期を迎えるまでそのままにしておきたいということです。自分の都合で花を咲かせようとしているいのちを強引に奪うとか、自らの花を自らで枯らしてしまうようなことをするのは、何とも残念なことです。それは、自分の思いや考えだけに左右されて、自他いのちの結末を作り上げるようなもので、絶対にあってはいけません。

誰もが一生懸命、自分の花を咲かせようとしています。その方法は一人一人違います。違っていて当然なのです。たとえ、自分とは見た目も性格も考え方も違っていたとしても、相手を認めながら、その存在を生かしていきたいものです。

花のように、自然の流れに従って、それぞれが自分のいのちを生かしていく。それが、「百花春至為誰開」に込められた意味です。