第19回  「法演の四戒」を味わうB
規矩不可行尽(きくおこないつくすべからず)


「マニュアル」にだけ捉われたり、頼ったりせず
“適度な関わり方”を目指す

曹洞宗中興の祖と仰がれる江戸期の禅僧・卍山道白(まんざんどうはく)老師(1636−1715)は加賀の大乘寺(だいじょうじ)・第27世住持をお勤めだった頃、「椙樹林清規」(しょうじゅりんしんぎ)編術なさいました。これは修行道場である大乘寺における規範や修行方法が綿密に記されたものです。大乘寺ではこれに則り、綿密な仏道修行がなされました。それと同時に、この清規は全国の修行道場に多大な影響を与えました。

規矩大乘(きくだいじょう)」という言葉があります。「規矩(きく)」とは規範」や「マニュアル」のことで、大乘寺における規範に綿密な日常の修行の様から生まれた言葉であり、曹洞宗の修行の規範が大乘寺にあることが色濃く表れている言葉でもあります。

僧堂での修行は集団生活という性格上、どうしても規矩は必要で、実際に、規矩のおかげで、修行道場が成り立っているという側面があります。

しかし、法演は「あまり規矩に捉われすぎるのもよくない」と説きます。法演は規矩の存在やマニュアル通りに事を進めるのを否定しているのではありません。規矩に縛られ、がんじがらめになるのではなく、ほどほどに関わっていこうというのです。

仏教の開祖であるお釈迦様は「中道(ちゅうどう)」の生き様を実践された方でした。これはどちらか一方に偏らない生き方です。すなわち、全ての存在を認め、大切にしていく関わり方なのです。周囲に対して、私見で価値を判断し、自分の好みで好悪を分別する私たちですが、この機会に「中道」の捉え方を体得したいものです。そんな「中道」のみ教えが、法演が説いた「規矩不可行尽」の根底にはしっかりと根付いていることを感じずにはいられません。

「中道」の視点から規矩を捉えていくとき、規矩に偏り、規矩だけを重要視してしまうと、指示待ちで、自分で判断する力が育たなくなってしまう可能性が否めません。逆に規矩を軽視していては、自由気ままで、好き勝手な生き方になりかねません。規矩というマニュアルとの関わり方を通じて、万事に対して、あまり頼りすぎず、かといって軽く捉えすぎず、適度に関わることを体得していきたいものです。