第21回  「喫茶去(きっさこ)  


相手との間に「境界」を作らずに接する

「喫茶」とはお茶を飲むことです。我々は、日頃、お茶やコーヒーなどの飲み物を口にしますが、それは、我々の日常の、ごくありふれた風景です。「喫茶」は日常生活の全てを意味すると共に、そこから転じて、日常そのものが仏法そのものであることを表しています。

そうした「喫茶」に「去」という助詞がついた「喫茶去」は趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)和尚(778-897)のお言葉で、来客が誰であれ、差別することなく「まぁ、お茶でも召し上がりなさい」とお茶を勧めるという意味があります。

周囲の存在に対して、自分の価値基準にとらわれるがあまり、人間は「比較の目」を持って接してしまいがちです。元来、全ての存在はこの世にたった一つしかない尊きいのちであり、そう簡単には比較できるものではありません。それなのに、我々は自分の尺度という小さな基準で、価値の有無、物事の良し悪しを決めようとしてしまうのです。そして、そうした捉え方が両者の間に差別を生み出していくのです。

差別は仏のみ教えから外れた行いであることは言うまでもありません。そうした差別を生み出さないように、気軽にお茶を勧めるが如く、誰に対しても分け隔てなく、お互いに境界を作ることなく、全てのいのちを大切にしながら毎日を過ごしていくことを、「喫茶去」のみ教えから学ばせていただきたいものです。