第22回 「いのちA ―何を標準とし、どう生きていく?―


(いたずら)邪見(じゃけん)()ちて(むな)しく悪業(あくごう)感得(かんとく)せん
()しからざらめや

この世に2つ3つと存在しない「たったひとつの尊いいのち」を生きる我々にとって、最大の課題は「生を明らめ死を明らめること」でした。すなわち、自分の生き様と死に様を明確にすることであり、「自分たちの生死(生老病死)をはっきり描きながら日々を過ごすということでした。

これは更に申し上げるならば、お釈迦様が坐禅を通じて得たお悟りの視点から、自分たちの生死を明らかにしていくということなのです。それによって、私たちが仏に近づけるように生きていく(成仏)という目標の達成につながっていくのです。

とは言え、お釈迦様の視点を体得するのは簡単なことではありません。時間も要すれば、捨てなければならないものも多々あります。「生きることは苦しいことだ」とおっしゃった先人がいらっしゃいましたが、成仏を目標とする私たちの生きる道は決して、平坦なものではありません。困難な険しい道なのです。

しかし、そんな困難な道だからこそ、歩ききった先には真実があるように思います。今から約2600年前の128日の明け方、坐禅修行によって悟りを得たお釈迦様は、そうした困難の道を歩み、真実に到達なさったのではないかという気がします。

そうした成仏への道を歩もうとせず、手抜きをして、お釈迦様のみ教えから外れた道を歩んでいくことは、多少の困難は回避できても、最終的には自分だけではなく、周囲も巻き込んで苦しみの渦を大きくしていくのではないかと思います。それが「徒に邪見に落ちて虚しく悪業を感得せん」が意味するところです。道から外れた誤った見方で日々を過ごすことは、自他共に苦しむ生活を生み出していくのです。それは「たった一つのいのち」を生かされている我々にとって、残念なことでしかないと道元禅師様はおっしゃいます。

だからこそ、お釈迦様のみ教えに従って、物事を正しく見、成仏を目指していきたいものです。そうやって「たった一つの尊いいのち」を明るく、積極的に生きていくことができるのではないでしょうか?それができずに、暗くて消極的な生き方をしているならば、残念なことです。お釈迦様に照準を合わせて、明るい道に方向転換していきたいものです