第23回 「“仏性(ぶっしょう)”に気づく」


悪を造りながら悪に非ずと思い
悪の報あるべからずと邪思惟
するに()りて

悪の(ほう)
感得(かんとく)せざるには非ず



いよいよ修証義・第1章の最後の一句にたどり着きました。

「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり(仏教徒にとって大切なことは、自らの生き様と死に様を明確にしておくことである)」で始まる第1章をじっくり読み味わってみると、この章では仏教の根本思想について触れられていることに気づきます。“三宝印(さんぼういん)”(諸行無常(しょぎょうむじょう)諸法無我(しょほうむが)涅槃寂静(ねはんじゃくじょう))始め、“因果の道理”―1章はそうした仏教の基本的思想に触れながら、後に続く2〜5章の導入部の役割を果たしているのです。ちなみに、冒頭の「生を明らめ〜」に対する解答は現段階では明確にされていないことを押さえておきます。

今回の一句を味わっていく上で、「仏性(ぶっしょう)」という仏教の根本思想を併せながら見ていくと、より味わい深いものになっていくような気がします。「我は迷いに導くものであり、仏性はさとりに至らせるものである。」―これは「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」に示された一句です。私たちはこの世に一人で生かされているわけではありません。多くの存在と関わり合いながら生かされているのです。それを「衆縁和合(しゅうえんわごう)」だとか「縁起(えんぎ)」と申しました。私たち一人ひとりは小さな存在かもしれません。しかし、その小さな存在が、それぞれに与えられた役割を果たしながら、お互いに関わりあって、大きな世界を作り上げているのです。言ってみるならば、私たち一人ひとりがこの社会を担う大切な部品のような存在なのです。

そんな部品に故障が生ずれば、社会の歯車が狂いだします。一つの部品の故障が、その部品と関わりのある部品をも故障させていきます。そうした現象が増えていくと、歯車はどんどん狂っていきます。それを食い止めるためには、いち早く故障した部品の存在に気づき、修理するしかありません。修理すれば、部品は復活し、本来の役割を担うことができるようになります。

同じことが私たちの人間社会にも言えるのです。一人の人間がこの世の道理から外れ、自分勝手な視点で都合のいいように世の中を解釈すれば、周囲の人間も巻き込んで、苦しみを深めていきます。まさに「大般涅槃経」に示されている「我は迷いに導くもの」なのです。それを食い止めるには、私たち一人ひとりが「仏と共に生きる」ことが求められてくるのです。すなわち、私たちがお釈迦様のみ教えに従い、仏道修行を行っていくということです。そうやって、私たちはこの世の真理に気づき始めるのです。つまり、私たちが生かされている娑婆世界の仕組みを受け止めることができるようになるのです。

そして、私たちは実は自らが仏様と同じように仏道修行によって仏のお悟りに近づける力を持っていることにも気づくのです。その力が「仏性」なのです。

「仏と共に生きる」こともなく、お釈迦様とのご縁が薄い日々を過ごしているとすれば、たとえ道から外れたことをしていても、私たちは自らを正そうとすることもなければ、その報いを受けることもあるまいと思うことでしょう。私たちには「仏性」という自らに秘められた仏の種があるにも関わらず、その存在に気づかずに日々を過ごすことは残念なことであると道元禅師様はおっしゃいます。一日一日を大切にしながら、少しでも仏様とのご縁を深め、「仏と共に生きる」ことで、自らに秘められた「仏性」という宝物に気づけるようになったらと願うばかりです。