第1回 『「慈しみの門」を探して』
仏祖
修証義・第2章―そのタイトルは「
“罪”と聞いて、多くの人は殺人や強盗といった犯罪を想像することでしょう。ほとんどの人は犯罪を犯し、社会の裁きを受けたという経験はないはずです。ですから、罪を滅すと言っても、自分とは無関係だと感じるのではないかと思います。
しかしながら、「滅罪」が指す罪とは、犯罪のような社会的責任の重いものだけに限定されているのではありません。たとえば、罪には問われない日常レベルの悪事(嘘をつく、悪口を言う、人を批判する)といったものも含まれているのです。つまり、ここでの罪とは、「仏教における罪」であり、仏法(お釈迦様のみ教え)に背く行為を意味しているのです。
そうした仏法に背く行いをしないようにと仏教では「戒」を説くのですが、いくら戒のみ教えがあっても、道から外れてしまうのが我々、人間なのです。お釈迦様を始め、多くの祖師方は、そんな人間の性質を十分に理解していました。そこで、ご自分たちも我々と同じ人間であることを認識しながらも、どうすれば、仏法に背いた者が救われるのかを説かれました。
その方法が「懺悔」です。懺悔は自らの過ちに気づいたならば、二度と同じ過ちを繰り返さないことを誓って日々を過ごしていくことです。懺悔によって、犯してしまった罪が消えることはなくとも、小さくなっていく―それが滅罪です。
そんな道から外れやすいがゆえに滅罪が欠かせぬ我々人間に対して、全ての人間を救いたいと願う「憐みの心(愛情)」を持っている祖師方は、あちこちに罪を償い、再出発を目指すための場所を設けました。それが「広大の慈門を開き置けり」の意味するところです。私たちが素直に自分と向き合い、仏のみ教えに従って、謙虚に生きていこうとする姿勢があれば、私たちは仏様とご縁を結ぶことができるということです。自分の家であれ、学校であれ、近所のスーパーであれ、それらは私たちの関わり方次第で、仏祖が設けた「慈門」となります。仏祖は常に我々に無限の広がりを持つ救いの門を開いてくださっているのです。そこには高い通行料も厳しい門番もいません。誰も差別されることなく、自由に入ることができます。なぜなら、仏祖は「一切衆生を証入せしめんが為なり(私たちが救われることを願っている)」からです。
第2章の冒頭の一句が言わんとしているのは、日常の全てが仏道に入る縁であるというのです。楽しいこともうれしいことも、悔しいことも悲しいことも、親しい人も嫌な人も、皆、自分を悟りの世界へと誘い込んでいるのです。ただ、我々が「良し悪しを比較して、いいほうだけに捉われたり・・・。苦楽を比較して、楽な道を選んだり・・・。」と、比較して、好きな方だけを選ぶから、なかなか全てが仏道に入る縁だと思えないのです。
いちいち物事を比べて見るのをやめて、日常の全てが仏道に入る縁である―そうやって周囲を見渡せば、あらゆるご縁に感謝できるようになってきます。そうした見方を通じて、今一度、仏祖が開かれた「慈しみの門」を探しをして、悟りへの道を探していきたいと願うのです。