第2回 「差別なき救いの門」
「日常の全てが仏道に入る縁である」というのが前回のお話でした。それは、誰もが差別されることなく平等に救われるということを意味しています。そんな仏教の根本思想を強調して、人々に印象付けようとしているのが今回の一句です。
まずは冒頭の「
(1)
怒り狂っている世界です。
何らかの原因で怒りが生じている世界―そこでは結局、「怒られる人」はもちろん、それ以上に苦しんでいるのが、「怒っている本人」です。
(2)
これが「人天」の「人」を意味する「人間界」です。我々が住むこの娑婆世界です。
(3)
お釈迦様がお亡くなりになる直前に残された「
(4)
理性が働かぬ世界です。本能のまま、やりたい放題という世界です。
(5)
「人天」の「天」を意味する「天上界」です。
「有頂天」という言葉からも想像できるように、喜びに満ちた最上の世界です。一見したところ、理想の地のように思える世界ですが、あまりに居心地がいいと、そこに生かされている人は楽を覚え、辛いことや苦しいことを受け止める力を失います。楽しみだけでは人は成長できません。いいことをも悪いことも両方とも経験できるのが人間にとっての本当の幸せなのです。まさに、天上界での喜びは「仮の喜び」なのです。
(6)
何ごとも自分本位で、自分に都合のいい考え方をする世界です。自分が一番正しいと思うことが、不用意な争いや対立を生み、果ては戦争に発展する恐れを秘めているのです。
こうした六道の世界を見ていきますと、人間界に生かされている我々にとって、実は他の世界も決して、我々と無関係な場所ではないことに気づかされます。そう、どの世界も我々にとって心当たりのある経験したことがある世界なのです。人間として生かされている我々が、自分の行いひとつで怒り狂った状態になって苦しむこともあれば、やりたい放題をしたり、欲望をコントロールできず、あれこれ貪っては苦しんでしまうというのです。六道の各世界は我々の生き方一つで、いかようにでも経験することになる世界なのです。そして、そこには必ず何らかの苦しみがあります。
だから、お釈迦様は、その苦しみから我々を救うみ教えを説き、我々が仏道と縁を結べる「救いの門」を設けられたのです。今回の一句では「人間界」と「天上界」を略した「人天」という言葉が使われていますが、たとえ自分の行いによって、六道世界のいずれかに行くことがあっても、各所に仏道に入る門があり、いつでも救いの手を差し伸べてくださっているというのです。そして、その門は能力や身分で人を差別するような門ではありません。誰でも入ることができ、誰でも救われる門なのです。
どの世界に転じて、苦しみを感じることがあっても、そこには必ずお釈迦様が設けられた「差別なき救いの門」があります。それを信じること。そして、困ったときには「救いの門」を探してみること―それが今回の要となるみ教えです。