第3回 「仏性(ぶっしょう)(たも)ち続ける」


()の三時の悪業報(あくごっぽう)必ず感ずべしと(いえど)
懺悔
(さんげ)
するが如きは重きを転じて軽受(けいじゅ)せしむ 
又滅罪清浄(まためつざいしょうじょう)ならしむるなり

  

第1章・「總序(そうじょ)の中で、「三時業(さんじごう)」について触れました。業(私たちの行い)には、何らかの原因があり、必ずや何かしらの結果をもたらし、報いを受けることになります。そんな業の結果や報いが生ずるタイミングに関するみ教えが「三時業」です。

ちなみに三時業を今一度、下記の一覧表にまとめ、おさらいしておきます。

順現報受(じゅんげんほうじゅ) 現世において結果が生ずる
順次生受(じゅんじしょうじゅ) 来世において結果が生ずる
順後次受(じゅんごじじゅ) 来来世において結果が生ずる

いいことをすればいい結果が、悪いことをすれば悪い結果が訪れるという「因果の道理」は誰しも経験したことのある明白な事実ではないかと思います。仏教では「今」という時間と、「ここ」という場所しか仏道修行ができないという観点から、「今」、「ここ」を起点として、過去や未来とのつながりを考えていきます。今の自分は過去の行いによるものであり、今の自分の行いが未来の自分を決めていくのです。

そうした道理において、もし、悪事を働き、その結果が我が身に訪れたとき、どうすることが求められるのでしょうか・・・?仏教では、結果を受け止め、自らを省みることはもちろん、自らの生き様を改善し、二度と同じ悪事を働かないようにしていくことが求められるのです。それが「懺悔(さんげ)」という仏道修行です。懺悔によって、重罪が軽くなり、私たちはきれいな人間に生まれ変わることができるというのが、今回の一句が指し示す内容です。

きれいな人間に生まれ変わる―それは何も全く別の人格を有した人間に生まれ変わるということではありません。本来誰しも持っている純粋な心に気づくということなのです。そうした誰もが元来、有するきれいな心が「仏性」です。それは、仏の性質であり、私たちが日常生活の中で、自らの掃除を怠っていたがために、いつしか垢やほこりにまみれ、見えなくなっていたものです。

そんな仏性をきれいに掃除して、本来の姿になるまで磨き上げていくこと。あたかも、汚れたガラス玉を磨き続けて、最初の輝きを取り戻していくように、本来の姿に気づき、それを取り戻していくことが「懺悔」なのです。

私たちの周りにはいろんな人間がいます。いい人だと感じる人もいれば、嫌なヤツだと感じる人もいます。しかし、どんな人も仏性も持った存在であり、元来の心が汚れていたわけではありません。縁によって今の自分になったのです。すなわち、善き縁に巡り合い、善き人にも恵まれている人は善き人となり、悪縁によって、悪しき人たちと関わっている人は悪しき人となるのです。その時々の縁が、その人の今を決めていくのです。

しかし、だからと言って、悪縁から我が身を立ち退かせようともせず、悪事ばかり働き、善事を修することを怠るようではいけません。仏性を磨き続け、本来の姿に取り戻すのです。そして、それができたならば、仏性を持ち続けるようにしていくことが大切です。そうした日頃から自己の中に眠る仏性を確かめ、持ち続けるような「よい生き方」を心がけていきたいものです。