第4回 「“比較”をやめてみる」


舎利子(しゃりし)
是諸法空相(ぜしょほうくうそう)
不生不滅(ふしょうふめつ)
不垢不浄(ふくふじょう)
不増不減(ふぞうふげん)
是故空中(ぜこくうちゅう)

「きれい⇔きたない」、「多い⇔少ない」、「簡単⇔難しい」

こうした対の意味をなす言葉を「対義語(たいぎご)」として、学生時代に勉強なさった記憶があるのではないかと思います。我々が住む世界には、こうした対の関係があまた存在しており、それゆえ、我々は無意識のうちに、こうした比較を行ってしまうのです。

しかし、そうした比較によって、もし、救われるものとそうでないものが出たり、認められるものとそうでないものが出たりすれば、一体、その比較に何の意味があるのでしょうか・・・?

お釈迦様はこの世のあまたの存在に対して、私たちが比較をすることを「分別(ぶんべつ)」と捉えられました。そして、分別したものに対して、自分の好みで好悪や善し悪し等の差をつけることを「差別」と捉え、厳しく戒められました。なぜならば、この世のあらゆる存在には全て「たったひとつしかない」尊いものであり、比較して一方だけに価値をつけられるものではないからです。

比較することに関して、具体的にこんな場面を考えてみたいと思います。たとえば、「ABよりも賢い」という比較の場合、賢さという一面のみで両者を比べ、「AB」という図式が成立します。これはABを見下すと共に、Bは自分の存在を否定し、自分を卑下することにもなりかねません。

この事例は、ある一面のみで双方を比較することによって、無益な結果しかもたらさないものです。そんな無益な「比較」はやめて、物事を多面的に見つめ、みんなのいいところを探し、心安らかに生きていくことを、舎利子(しゃりし)(シャーリプトラ)に説くのが、この一説です。

人間は、それぞれ個性を持っています。誰一人として、同じ人はいません。ですから、人それぞれに強みもあれば、弱みもあり、優れた面もあれば僧でない部分もあるのです。ある一部分だけを取り上げて、双方を比べ、一喜一憂するのではなく、「自分のよさや相手のよさを、いろんな角度から見て、みんなの価値や存在意義を見つけ出していってほしい」というのが、般若心経が我々に発する願いなのです。