第5回 懺悔(さんげ)の力


恁麼
(いんも)
するとき
前仏懺悔(ぜんぶつさんげ)功徳力(くどくりき)、我を(すく)
いて清浄(しょうじょう)ならしむ


今回は「恁麼(いんも)という、一見難しそうな言葉からスタートしています。この言葉は、経典の世界では、よくお目にかかる言葉で、「このように」という意味の指示語として解釈していただければと思います。「このようなとき」ということですから、前段の内容を指していることは自明です。

前段では「心の大掃除を習慣化させる」ということで、「定期的に汚れやすい我々の心をきれいにし、本来有する純粋な心(仏性)に気づく」ということについて触れられていました。それが「懺悔(さんげ)」という、自分に正直かつ謙虚になって、自らが悪事を働いたのならば、それを認め、同じ過ちを繰り返さないことを誓う修行なのです。

そうした懺悔によって、人は救われ、元来、備えているきれいな心(仏性)を取り戻すことができる―それが「前仏懺悔の功徳力、我を拯いて清浄ならしむ」の意味するところです。「功徳(くどく)」というのは、行いに対する報いのことです。善行に励み続けていれば、いつか必ずや善果を招き、仏性を取り戻せるのだと―これは懺悔の力を保証するものです。それだけではありません。我々に対する励ましのメッセージであるとも解釈できます。

とにかく、「懺悔」というのは、汚れやすい我々の心をきれいに掃除し、よき自分を(たも)ち続けるためには欠かせぬ修行です。仏教というのは、「悪を止め、善を行うためのお教えである」と、あまたある経典で幾度となく説かれていますが、誰しも、善の道を歩もうとすると、悪の道からの“お誘い”がやって来ます。そのお誘いに乗ってしまうと、次第に人はあるべき正しい道から外れ、自分の身を滅ぼしていくのです。だからこそ、そんな甘いお誘いの声に乗って、身を滅ぼすことがないよう、道から外れることなく、しっかりと善の道を歩んで行く必要があり、そのための行いが「懺悔」だということです。

“懺悔の力”―それは、我々が人として生きる上で、確実に悟りの道へと近づけてくれる力です。お釈迦様のお悟りに到達できる一つの手段としての「懺悔」を日常の行いとして身につけていきたいものです。