第6回 「坐禅と懺悔」

此功徳(このくどく)()無碍(むげ)浄信精進(じょうしんしょうじん)生長(しょうちょう)せしむるなり


懺悔(さんげ)」がキーワードとなる第二章―前回より「前仏懺悔(ぜんぶつさんげ)」に関するみ教えが説かれています。仏様を前にして、自らの悪事に気づき、二度と同じ過ちを繰り返さないことを誓うのが「前仏懺悔」ということです。

仏様を前にということですから、たとえば、ご自宅のご仏壇の前に姿勢を正して、しばし鎮座し、心静かに向き合うもよし、お寺の本堂に安置されているご本尊様の前に身を置くもよし、様々な方法があります。大切なことは心静かに自分と向き合うということです。あたかも、お寺やご自宅の仏壇の前に身を置いて、自分が信仰する仏様の前で今の自分の姿を正直にさらけ出すように、日常生活において、何か悩み苦しむ瞬間を向けたときに、こうした「前仏懺悔」をやってみるといいのではないかと思います。

そんな「前仏懺悔」に相通ずる仏行が「坐禅」です。鎌倉時代に一般民衆にもわかりやすい仏教をということで誕生した「鎌倉仏教」の一つである曹洞宗では、その修行の中心に坐禅が置かれました。曹洞宗の開祖・道元禅師様は「坐ることは誰にだってできる修行である」と仏教の原点に回帰して、坐禅を提唱されたのです。

高源院では、そんな坐禅を一般の方にもお伝えすべく、毎週日曜日に「やすらぎの会(坐禅会)」を開催しています。今年(平成28年)で開始から8年が経ちました。開会当初は、早朝6時の開催でしたので、冬の寒い時期でも半ば凍えながら坐禅をしたものです。まさに、“寒さとの闘い”と言える状況でした。その頃から今も続けて参加してくださる方がいらっしゃることをありがたく感じています。

参加者にお伝えしていることは、「坐禅を継続することは、仏様のいのちをつなぐこと」だということです。坐禅はお釈迦様がお悟りを開くきっかけとなった尊い行いです。その坐禅を完全にストップして、この世から消してしまったとすれば、お釈迦様のいのちを断つことにもなるのです。

そんな坐禅を今、我々も同じようにさせていただくことが、少しでも仏様に近づくと共に、自己の中に眠る「仏性」を掃除して、きれいにしておくことにもつながっていきます。それが「仏のいのちをつなぐ」ということなのです。そこには、寒いも暑いもありません。ただひたすら、仏のいのちをつなぐことに全力を挙げるのです。

そうした坐禅という「心静かに身体を落ち着けて坐り、自己と向き合う」という行いを続けていくと、「自分がどう生きていくべきなのか?」という自分の生きる道が次第にはっきりしてくるのです。それが、坐禅(前仏懺悔)の功徳(報い)です。

そして、その報いが「能く無碍の浄信精進を生長せしむるなり」だというのです。「()」とは「さまたげ」のことですから、悟りの道を歩む上での障害物だと捉えていけばよろしいでしょう。そんな障害物が“無い”わけですから、坐禅(前仏懺悔)を継続することによって、何かに妨害されることがなくなるというのです。そして、「浄信(正法を信じること)」と「精進(努力すること)」を生長(長く生かす:継続)させるというのです。「精進」はよく耳にする仏教用語ですが、「精(混じりけのない純粋な状態)」で「進む」ことを意味しています。仏様のお悟りに向かって、浄信を持って、前仏懺悔を行じていくならば、我々は必ずや仏様に近づけるということです。何とも前仏懺悔の報いというのは、計り知れないものなのだということです。

懺悔の一つの形としての「坐禅」―それを真剣に取り組むものは、必ず仏祖に救われる―それを信じ、それを励みに、これからも「やすらぎの会(坐禅会)を通じて、坐禅に精進していきたいものです。