第7回 「変革 ―自分が先に変われば、相手も変わる―

浄信(じょうしん)一現(いちげん)するとき、自侘同(じたおな)じく(てん)ぜらるるなり


平成28年5月現在、私は曹洞宗石川県青年会に所属し、事務局長として日々の運営に携わらせていただいておりますが、それ以前は曹洞宗石川県宗務所や金沢市仏教青年会など、宗派内外の組織や会の運営に携わらせていただきました。そうした僧侶だけの会以外では、子どもの保育園の保護者会など、一般の方も参加される会にも携わらせていただいています。そんな中で第一に感じることは、どの会も固有の性格を持ちながら、それぞれの目標に向かって真っ直ぐに進んでいこうとしている点で尊い方の集まりばかりだということです。

今から7年前のことです。平成21年(2009年)に一年を表す漢字として、「変」という文字が提示されました。自民党政権から民主党(現:民進党)への政権交代など、随処で旧習を変革することが声高に主張された時代だったように思います。これまでの常識に疑問符が打たれる中で、“変革の波”を受け入れられた方はいざ知らず、受け入れられなかった方にとっては、ついていくのも大変だったのではないかという気がします。

「変革」ということについて、私自身、いい方向に発展していくならば、大賛成です。しかし、「何でもかんでも変えればいい」というのには、正直、疑問を感じます。なぜなら、仏教が「縁起説(えんぎせつ)」を説くからです。「縁起説」というのは、この世の全てが関わり合い、支え合いながら存在しているという説です。ということは、何か一つを変えれば、それに関わる全てが必然的に変化を迫られるからです。

たとえば、この原稿一つにしても、すべての文字が関わり合って原稿が成立しています。そんな中で、どこか一つ表現を変えれば、全体に影響が出てくるのです。何かを変えるということは、周囲に影響を与えると同時に、他の変える必要のないものまで変えなければならないことになりうるのです。皆にとってよかったはずのものが変化して悪いものになってしまったという例は我々の周りにも多々あるように思います。

昔、中唐の詩人・白居易(772−846)が道林和尚に「仏教とは何か?」という問いかけを行った際、「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)(悪いことをしない よいことをしよう)という問いが帰ってきました。これは「皆が悪い方向に行くようなことは止めて、いい方向に進めるようなことをしましょう」ということですが、「変革」を考えるとき、よくよく考えに入れておきたい言葉ではないかと思います。果たして、その変革案が本当に皆にとっていいことなのだろうか・・・?旧習を築き上げてきた人たちに対する個人的な批判だとすれば、提示される変革案は悪意のあるものであり、決して、皆がいい方向に進めるとは限りません。そうした個人的見解は少し横に置いておき、全体がよくなることを願い、そうした方策の一つとして、「変革」という手段を考えていきたいものです。

そうした変革を考える上で、今回の「浄信一現するとき、自侘同じく転ぜらるるなり」も大切な意味を持っています。人は変革を求めるとき、ついつい自分ではなく相手に変わってもらうことを願います。私自身がそうでした。しかし、ある方から「相手が変わることだけを願うのは、少し都合がいいのではないか?」と指摘され、ハッとしたのです。人間はそれぞれ長い時間をかけて、今の自分を作り上げてきました。それをたった一言で、変えてくれと言われても、そう簡単に変わるでしょうか?私はそんなに簡単に自分を変えられません。それは誰もが同じです。人格はそう簡単には変えられないのに、“相手に変革を求める”というのは、あまりにもわがままでなことであり、人格を持った相手に対して失礼なことなのです。

人から変革を求められても簡単には変われないものですが、「相手ではなく、自分から先に変わること」によって、変革は可能となります。自分から変わっていこうという気持ちさえあれば、人は変われます。自分の変化が相手を変化させます。それが「自侘同じく転ぜらるるなり」ということです。“自侘同じく”ですから、相手も自分も同時に変わっていくということです。

そして、「浄信一現」というのは、仏祖をまっすぐに信じる気持ちが自分の行動と一体化するときということです。すなわち、仏祖のみ教えに従った行動(仏と共に生きる)ということなのです。相手が変わることを願う前に、自らの浄信を一現させる、自分が仏と共に生きることをによって、皆がよい方向に変革されていくというのです。

自分から先に変わることで、皆が変わるということを心の片隅に意識していただければと思います。