第28回  無可無不可(かもなくふかもなし)

「何事も最初から○×を決め付けない」


お恥ずかしい話ですが、若かりし頃の私は、曹洞宗のお寺に生まれながら、坐禅が好きになれませんでした。その理由は「坐禅をしても足が痛くなるだけで何も喜びを感じられないから」というものでした。師匠(父親)の跡を弟子(子ども)が継ぐ“世襲制(せしゅうせい)”という形態の中で、本当は自分が継ぐお寺(宗派)のみ教えに納得できないのに、跡を継ぐことに矛盾を感じますが、そんな気持ちで跡を継いでも、当然ながら、やる気も起らなければ、僧侶として生きる喜びさえも感じにくくなるものです。思い起こせば、若かりし頃の私はそんな僧侶だったような気がします。

しかし、24歳のとき、高源院というお寺の住職を拝命し、25歳のときから3年間、布教師養成所に通わせていただいたくようになるうちに、いつしか、考え方が変化していきました。お釈迦様や道元禅師様の時代は、修行僧は、流れる雲のごとく、師匠と呼べる人材を探し歩き、やがて出会った師匠の下で仏門に入りました。しかし、世襲制が主流となった現代では、道から自分たちの方にやって来るのです。何も師匠を探し歩かなくとも、仏道とご縁が結べるのです。
たとえ、それが自分で選んだ道ではなくとも、、仏様と出会うことができるということに気づかせていただいたとき、やっとやる気が沸き起こり、僧侶としての自覚が芽生えっていったように思います。今や「やすらぎの会」で坐禅を行い、HPを通じて「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」や「坐禅用心記」を発信していく中で、私は人々と坐禅の世界を共有できるようになりましたが、そこまで辿り着かせていただくには、幾多のハードルを乗り越えねばならなかったのです。

そうした過程を振り返りながら、私は足が痛くて喜びを感じられなかったから坐禅が好きになれなかったというよりは、坐禅を行う前から、自分の思い込みや決め付けで坐禅を否定していたことに気づかされたのです。要するに、「やる前から、好き嫌いを分別し、やりたくない言い訳をすべく、あれこれ理屈をこねていた」のです。

無可無不可(かもなくふかもなし)」とは、何事も「行う前から良し悪しを決め付けない」という意味の禅語です。やりもしないで、自分勝手な解釈で好悪の分別を起こし、悪い部分ばかり見て、やろうとしないから、そのものが本来持っている価値に気づくことができないのです。何事も本来は○×を容易には決めることができません。なぜなら、万事が良し悪しのような“両面”が存在しているからです。それなのに、私たちは○か×のどちらかに捉われ、自分の解釈だけで好嫌を分別し、好きなものだけを受け入れ、嫌いなものを避けてしまうから、本質に気づけないのです。


本質はやってみることで見えてくるものです。やってもいないのに、自分の解釈のみが先行し、○×を分別し、その結果、×になった方の本質に気づかないというのでは何ともったいないことかという気がします。「
坐禅アレルギーの克服体験」を通じて、私は何事も即座に○×を決め付けず、時間がかかっても、やりながら本質に気づいていくという姿勢を大切にしていきたいと思っています。