第17回  『「因果の道理」を明らめる』


()因果亡(いんがぼう)じて(むな)しからんが如きは、

諸仏の出世(しゅっせ)あるべからず

祖師(そし)西来(せいらい)あるべからず


私たちの日常生活の中には、いろんな出来事があります。楽しいことやうれしいことばかり起こればいいのですが、辛いことや苦しいこと、嫌なことも多々あります。むしろ、そういうものこそ多く経験しなければならないのが、私たちが生かされている「娑婆世界」の定めなのかもしれません。

では、そういう娑婆世界の中で、私たちはどうやって日々を過ごしていけばいいのでしょうか・・・?

大切なことは楽しいことやうれしいことだけを受け止め、辛いことや苦しいこと、嫌なことから逃げ出さないようにしていくということです。いろんな出来事がありますが、それらを自分の頭の中で捉えたときに、自分の好みだけで感覚的に分別するのではなく、全てが自分に必要なご縁であると受け止めていく姿勢が大切なのです。

人間には楽しいことやうれしいことだけを好もうとする反面、辛い出来事や苦しい出来事に遭遇したとき、それを受け止め、その中に何か自分が受け入れられるものを見出していこうとする力も持っています。そういう力を大切にしたいものです。前回より「因果の道理」に関するみ教えを味わっておりますが、我が身に起こるどんな出来事も「因果の道理」によって生じたものです。すなわち、善行には善果が、悪行には悪果がもたらされるわけですが、善果は継続できるよう、悪果は善果に変えられるような日常を送っていきたいものです。前回、「因果の道理」は“私なし”とありました。決して、自分の思い通りにならないのです。そのことが理解できたならば、どうか、我々に秘められた「苦しみをバネにして成長していく力」を大切にして、辛い出来事を人生の肥やしにしていけるような関わり方をしていきたいものです。

さて、そうした「因果の道理」を仏教に当てはめてみると、何が言えるのでしょうか・・・?平成27年は曹洞宗の大本山・總持寺(横浜市鶴見区)において、二祖峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師様の650回大遠忌法要が「相承(そうじょう)」という言葉をテーマに厳修されました。「相承」とは師から弟子に教えや技術が伝わることなのですが、インドのお釈迦様のみ教えが代々受け継がれ、やがて達磨大師(だるまだいし)様より中国にもたらされ、更には日本から中国に渡り、仏道修行に励んでおられた道元禅師様によって日本に伝えられました。日本では道元禅師様のみ教えがお弟子様の懐弉(えじょう)禅師様に伝えられ、そこから徹通(てっつう)禅師様、瑩山(けいざん)禅師様、峨山禅師様へと順々と伝わり、今に至ります。こうした仏法(お釈迦様のみ教え)が今日まで相承され、いつの世にも息づいていることが仏教における「因果の道理」だというのです。

もし、因果の道理が存在しなかったならば、仏法がインド⇒中国⇒日本という形で伝わることはなかったでしょうし、こうした仏法を伝えてきた諸仏(祖師方)は存在しなかったでしょう。今、私たちは我々の目に見えないところで、長い時間の中、幾多の困難を乗り越えて私たちの眼前にやって来た仏教とご縁を結ばせていただいているのです。

それは仏教に限ったことではありません。今自分の目の前に存在しているものは、ただ私たちの眼前に存在しているのではなく、長い時間をかけ、多くの存在の関わりの中で手をかけられながら、今、存在しているのです。そうしたモノを存在させている道のりに思いを馳せながら、それらと巡り合えたことに感謝の意を捧げ、そのご縁を大切に関わり合っていくことが「因果の道理」を知り、明らめていくということなのです。