第1回 「菩提心を発す―自他共に救われる生き方を―」
第3章の最後に「
「菩提心」とは、自己の本来の姿であり、本心のことです。そうした自分の中に眠っていた菩提心に気づくことが「発菩提心」です。
曹洞宗の開祖・道元禅師様は「菩提心とは無常を観ずる心」であるお示しになっています。「無常」とは、「常が無い」ということで、この世に存在する全てのものが時間の流れの影響を受けて変化していくという、この世の特徴の一つです。
いのちあるものは、いつしかそのいのちが尽きるときがやってきます。年齢順にあの世に逝くとは限りません。永遠に生きていたいと願っても、それは不可能であり、死は必ず訪れます。「生こそ無数の条件によってもたらされる偶然であり、死は誰にでも訪れる必然である。」とおっしゃった先達がいらっしゃいますが、この言葉を我が身に刷り込み、この世の無常を正しく受け止めていけるようになりたいものです。それが「発菩提心」の第一歩だということです。
次に第4章・「発願利生」というタイトルについて触れておきましょう。
「発願」とは「願いを
そして、「利生」とは、「自分と関わる周囲の人々に
こうした「利生」ということを願って、我々に提示されたみ教えが、「発願利生」なのですが、このみ教えに従って日々を過ごしていくならば、まずは自分の周囲には様々な存在があることを意識することが大切です。我々人間はついつい自分のことを最優先してしまいますが、それで自分が救われるでしょうか?また、周囲も救われているでしょうか?よくよく考えてみたいものです。日頃の自分を振り返ってみたときに、自分のことだけを大切にするような自己中心的な考え方や行動があるならば、しっかりと慎み、周囲にも気を配り、皆が救われ、喜べるような毎日を過ごしていきたいものです。
そもそも、発菩提心されたお釈迦様のお悟りとは、「
そうした周囲の存在に対して、どのように関わっていけばいいのかを考えたとき、自分だけが先に進もうとしても、誰も救われないのです。やはり、お互いに相手に道を譲り合うからこそ、共に先に進むことができるのです。それを今回の一句では「己れ未だ度らざる前に、一切衆生を度さんと発願し営むなり」と説いているのです。
菩提心を起こして日々を過ごしていくとき、具体的にはどういう生き方が求められるのでしょうか・・・?
言葉、行い、心構え―それらが具に示されていくのが第4章「発願利生」なのです。