第1回 「般若心経に親しむ」

仏教に関心がある人はもちろん、ない人でも、「般若心経」というお経があることは、ご存知ではないかと思います。般若心経は曹洞宗などの禅宗各宗派はじめ、天台宗や真言宗の密教系宗派で唱えられます。また、写経をされたことがある方は、一度は般若心経を写経した経験がおありなのではないかと思います。

お正月などのご祈祷で、お坊さんが太い経本を左右にバラバラと扇子を広げるようにしているのをご覧になったことがある方もいらっしゃるかと思いますが、あれは「転読(てんどく)」と申しまして、600巻もの長大な経典を転がすかのようにして、全て読んだことを意味しています。

この600巻の経典は「大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう)大般若経(だいはんにゃきょう))」と申します。それを古代インドのサンスクリット語から漢語に翻訳し、262字にまとめたのが、般若心経です。実際、262文字については、末尾の「般若心経」という言葉を入れるかどうか、また、お経のタイトルを入れるかどうかで、文字数が変わるため、様々な解釈が存在しており、文字数に関するはっきりとした定説があるわけではありませんが、だいたい260字程度のお経だと解釈をしておけばよろしいかと思います。

この般若心経を漢訳した人物の一人が中国・唐代の大経訳家の玄奘(げんじょう)(602〜664)です。あの「西遊記」に出てくる三蔵法師(さんぞうほうし)というお坊さんとして有名ですね。ちなみに三蔵法師とは仏教の「経蔵」・「律蔵」・「論蔵」の三蔵に精通した訳経僧を指し、玄奘は多くの三蔵法師の中の一人です。(他に玄奘以前の訳経僧で、最初に般若心経を漢訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)も三蔵法師のお一人である)

そんな般若心経が説くみ教えとはいったいどんなものなのでしょうか?

それは、「諸行無常」の現実を受け止め、少しでも仏様のお悟りに近づいていくことです。

「諸行無常」というと、特に私たち日本人は「平家物語」の冒頭にある「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり」という一句を思い浮かべるからか、何だか寂しい印象を持ってしまいがちです。最愛の人との別れ。大切にしていた思い出の品々との別れ。諸行無常という言葉には、そうした決別とか最後(最期)という意味が込められているような気がして、どこか寂しさを感じずにはいられません。

しかし、この世で、永遠不滅のものはあるのでしょうか?いのちあるものは、この世に誕生したら、少しずつ、老いていき、そして、必ずや最期をむかえるのです。今、新築した家も、何十年か建ったときには、建て替えときがやってきます。それが諸行無常という「この世の道理(この世のしくみ)」なのです。そうした道理を受け止め(認め)、少しでも心安らかに、生き生きと毎日を過ごし、仏の悟りに近づいていくことが「般若心経」に込められた願いなのです。

また、諸行無常とは「万事が変化する」ということです。変化とは、決別のような寂しさを伴うものばかりではありません。成長のように喜びを伴う変化もあります。大切なことは自分だけの見方で変化を捉えないということです。すなわち、自分の都合や好みだけで、変化を選り好みせず、どんな変化も受け止めていくことが仏の悟りだということです。

諸行無常であるという日常を生かされている我々が、どのような生き方を目指していけばいいのか―?それが般若心経の約260字の世界の中には、凝縮され描かれているのです。