第3回 「仏教の根本思想―差別意識を捨てること―」
巳
即ち
衆生の
人間が生きてきた歴史を振り返ってみると、農耕・牧畜の始まりによって、生産量に差が生じたことが「貧富の差」を生み出す一因になったことに気づかされます。それは、日本のみならず、世界各地に見られる歴史的傾向で、富を得たものは、住む家から、持ち物から、身なり・服装にいたるまで、あらゆるものが豊かになり、それが子孫末代まで続いていったケースも見受けられます。
人間というのは悲しいかな、どうやら、表面的な部分ばかりに目を奪われてしまう傾向があるようで、どうしても相手の外見に左右され、それ以上、深いものの見方ができなくなってしまうところがあるようです。地位のある人など立場が上と感じた相手に対しては媚び諂い、そうでない者に対しては、見下したような態度を取ってしまうのです。
お釈迦様はそんな人間の悲しき性をお悟りになっていらっしゃいました。それゆえに、お亡くなりになるときの最期のみ教えに、「人を外見だけで判断して、差別的な関わり方をしてはいけない」と説いていらっしゃいます。(
すなわち、お釈迦様は外見だけではなく、相手の内面にもしっかりと眼を向けていこうと説いているわけですが、今回の一句は道元禅師様がそうしたお釈迦様のみ教えを踏まえてお示しになっていることが感じ取れます。いかに道元禅師様という方がお釈迦様に帰依し、そのみ教えを人々に伝えようとしていたかということでしょう。
道元禅師様はおっしゃいます。
『たとえ、その人がみすぼらしく見えても、見た目ではない・・・
たとえ、幼い女の子であったとしても、年齢も関係ない・・・
また、
男性か女性かという性別の違いも関係ない・・・
その人が周囲の存在を忘れることなく、その存在を最優先に考えながら、言葉や行いを発していくとすれば、すべての人を導いていく人材である』と―
本文にはいくつか、解説を付すべき仏教語があります。
まず、2行目の「導師」ですが、仏に帰依し、仏の化身となって、法を説き、人々を彼岸の地(悟りの世界)に導き入れんとする人です。一般的には、法要や葬儀等で、中央で儀式を司る人を指します。
次に、3行目にある「女流」とは幼い女の子のことです。
そして、4行目の「四衆」というのは、仏教教団を構成する人のことです。すなわち、すべての人ということになるわけですが、4つを具に見ていくと@
『人を外見で判断するような差別的な関わりをせず、誰に対しても平等に「
私たちは今回の一句から、自分の中に眠る差別意識と向き合い、人を外見からではなく、内面から判断していけるような人間になることと、誰に対しても慈しみの心を持って接していくという仏教の根本思想を日々の心がけとしていきたいところです。