第4回  「三宝帰依の日常を! 自分の生涯に“仏”を存在させる―


生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし


「生死」−仏教では“しょうじ”と呼びます。これは人間の一生を意味します。この世には常に時間が流れています。それを仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」といいますが、それ故に、この世に存在するものは絶えず変化していきます。この世にいのちをいただいた者は、やがて、年齢を重ねて、病にかかり、死を迎えます。それを「生老病死(しょうろうびょうし)」と言い、私たちがこの世に存在するが故に経験しなければならない4つの苦しみを指すのですが、「生死」とは、その中で、最初の“生(生まれること)”と“最後の死(死ぬこと)”を取り出した言葉です。

そんな人間の一生涯の中に「仏」が存在するならば、私たちの一生涯が穏やかなものになり、「生死」の苦しみを和らげることができるというのが今回の一句が意味するところです。

道元禅師様が夜な夜なお示しになったみ教えをお弟子様である孤雲懐弉(こうんえじょう)禅師様が筆録された「
正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」という著書があります。その中に「人々(にんにん)皆食分(みなじきぶん)あり。命分(みょうぶん)あり。非分(ひぶん)の食命を求むとも来るべからず」とあります。これは人間の寿命や一生涯でいただくことのできる食事の分量は最初から定まっており、人によって異なるものであるということです。長短様々、いつお迎えが来るかわからぬいのちならば、どうやって輝きのある充実したものにするかを考えていくことが大切になってきます。仏教では、その方法として「仏と共に生きる」ことを提示しているのです。すなわち、私たちが仏とのご縁を結び、仏のみ教えに従って生きていくということで、そうすれば、私たちの日常が穏やかなものになっていくというのです。それが「生死の中に仏あれば、生死なし」の意味するところです。

仏とご縁を結び、仏のみ教えに耳を傾け、仏を敬うこと―それを「三宝帰依(さんぼうきえ)」と言いますが、三宝帰依の日常を過ごしていく中で、充実した生き方が見えてきたとき、苦しみが和らぎ、安らぎが生まれるのです。