第9回「火坑(かきょう)を避ける ―トラブル回避の視点を持つ―


一切の種植(しゅじき)及び諸の財寶皆當(ざいほうみなまさ)遠離(おんり)すること火坑(かきょう)()くるが如くすべし


お釈迦様のみ教えは「八万四千(はちまんしせん)の法門」と言われます。これはお釈迦様のみ教えが84,000個にも及ぶ膨大な数の説法をなさったことを表しています。その背景には、お釈迦様が同じみ教えをお示しになるにしても、ご縁をいただいた方一人ひとりの能力や性別等に応じて説法なさったということがあり、こうした相手(対機(たいき))に応じて法を説くことを「対機説法(たいきせっぽう)」と申します。

そんな「対機説法」ゆえに、数多の経典に示されているお釈迦様のみ教えはどこかで聞いたような、どこかでお見かけしたようなものが多く、何度も同じようなみ教えに出会うことがあります。今回は「執着心を捨てる」ということをテーマにお釈迦様はみ教えを説いていらっしゃいます。これも「修証義」等、他の経典と内容が被っていますが、頻出するみ教えほど大切なものであると共に、私たち人間がその実践を苦手とすることに起因しているという視点を持つことも大切かと思います。

お釈迦様は「たとえ家族や親戚、財宝のような大切なものであっても、火に包まれた穴を避けるように、そこから離れなければならないこともある」とおっしゃいます。「遠離」に関しては、この後、お釈迦様によって詳しく説き明かされますが、「喧騒や人の心を惑わすものから、身心共に一旦離れ、静かで穏やかに過ごすこと」を意味する言葉です。

私たちが生かされている娑婆世界は「衆縁和合(しゅうえんわごう)」であるといいます。すなわち、人間始め、様々な存在が関わり合うことによって、我々の日常が成り立っているということです。そうした色々な存在が関わり合うということは、摩擦を生じさせることもあります。特に人間同士の関わり合いは、トラブルに発展することもあります。たとえば、相手と考え方が合わなくなってきたとき、相手の考えを批判して、自分の意見を主張するも、相手は聞く耳を持たず、そのうちに相手の考えだけではなく、相手の人格にまで批判の矛先が向くまでに事態が悪化することがあります。これはお互いに「自分が正しく、相手が間違っている」という決め付け(執着)、相手を認めようとしないがゆえのトラブルです。自分の意見を一方的に主張することは、ある一面ではブレることなく一定しているようで、安心感を覚えることすらあります。しかし、自分の意見に捉われるが余り、他者の主張を聞き入れようとしなくなってしまい、火坑のごとく燃え広がって、トラブルを招くことになります。それは衆縁和合たる娑婆世界に生かされる人間のあり方としては、決して、誉められたものではありません。あまり自分に執着せず、ときには他者の声にも耳を傾けながら、真の道を求めていきたいものです。

火坑を避けるには、場合によっては、家族親族、財宝のように我が身と同じくらいに大切なものであったとしても、一旦はそこから離れて、ものごとを見つめる視点なり、考え方が求められることがあります。どこか物事がスムーズに進まなかったり、結果に満足できなかったりと、トラブルが発生したときには、自分の執着度を測ってみることをお勧めします。意外にも「自分の執着」が原因でトラブルが起こっていることが多いことに気づかされるはずですから・・・。