第7回「
或は無量劫行いて、衆生を先に度して自らは終に仏に成らず
但し衆生を度し、衆生を利益するもあり
いつの時代であれ、どんな環境の中にあっても、只々、周囲のあらゆるいのちが救われることだけを願い、此岸(我々が生きる娑婆世界)の地に生きる人々に彼岸(人間性を完成させた悟りの世界)の姿を示す―それが菩薩様の役割です。菩薩様は、自らは如来の悟りを求め続けながら(上求菩提)、我々衆生を救うべく、敢えて、我々の側にいて、彼岸のみ教えを指し示してくださる(下化衆生)のです。
そうした菩薩様の役割について触れられているのが、今回の一句です。まず「或は無量劫行いて、衆生を先に度して自らは終に仏に成らず」とあります。“無量劫”とは、無限の時間のことです。「たとえ、仏道修行によって、如来の悟りに到達できたとしても、我々凡夫の側にいて、ただ永遠に皆を救うことだけを願う」という菩薩の誓願が示されています。すなわち、周囲から悟ったことを認められたとしても、彼岸の地には渡らず、此岸に身を置いて、菩薩としての役割を果たすということです。そして、「衆生を度し、衆生を利益するもあり」とあります。あらゆるいのちを救おうとする菩薩の誓願だけは忘れないということが示されています。
我々の身の回りには様々な菩薩様がいらっしゃいます。中でも身近に感じるのは、観音様(観世音菩薩様)ではないでしょうか。観世音菩薩の「世音」とは、世間の音(世間に存在するあらゆるいのちが生きているが故に発する様々な音)です。それを観じ(周囲を広く見渡し、物事を奥底まで深く見通す)、相手に応じて救いの手を差し伸べようとするのが観音様です。「世音を観ずる菩薩様」である観音様は、自らの役割を果たすことを心がけ、常日頃から修行を欠かさずに続けています。そして、たとえ、自分の修行を完成させたとしても、それでよしとせず、常に人々と一緒に生活し、共に悩み、共に苦しみながら、人々の幸せを願っているのです。
こうした菩薩様のように、周囲の人々の悩みや苦しみに共感したり、喜びや楽しみというものを分かち合ったりできるということは、人間が生きていく上で、重要なことと考えます。
昨今、昭和生まれの有名人と平成生まれの有名人が、お互いの常識を主張し合う番組を目にすることがあります。ときには年齢や立場など関係なく、議論がヒートアップすることもありますが、お互いに相手の声に耳を傾けながら、随分、世代間における考え方の違和感が無くなりつつあるように感じます。
しかし、今や相互理解が図れつつある両者も、数年前までは、お互いにどう関わっていけばいいのかが掴めず、多くの人が戸惑っていたように思います。
平成25年。当時、曹洞宗石川県宗務所の人権擁護推進主事の任にあった私は、「檀信徒地方研修会」(石川県宗務所主催)の一コマで「人権学習」の講師を担当させていただきました。その折、昨今の企業の現場で起こっている新入社員の人権擁護をテーマに、年代の異なる方同士の関わり方についてお話させていただいたことがありました。この講演を行うために、準備を進めておりましたところ、いろんなことを勉強させていただくことができました。世代間の考え方の違いによって、働きにくさを感じた若い人たちが、うつ病等のメンタル問題を発祥し、早期退職を選ばざるを得なくなるという場面が増えていく現実。そんな中で、諸問題を解決すべく、企業全体で様々な取り組みが行われていることを知りました。結論として、最終的には若手社員の声に静かに耳を傾け、広い心で相手を受け入れると共に、明日に向けてどうすればいいのかに気づかせる「傾聴」の必要性にたどり着いたことが思い出されます。
今の時代、「世音を観ずる」ことができる人材は企業のみならず、あらゆる場面において求められています。「傾聴」は菩薩の誓願たる「下化衆生」につながる行いです。そして、そうした「傾聴」を実践していくには、自身の人間としての器を拡げ、人間性を高めることが必要となってきます。それが「上求菩提」ということでしょう。
そんな観音様のごとき菩薩様の役目を、できるだけ多くの方が熟知し、日常の中で実践していけたらと願うばかりです。そのためにも、まずは私たち僧侶自身が少しでも菩薩様の役目を果たし、社会の手本となっていくべく、精進、精進。