第15回「正しい見識を持つ


今の世に因果(いんが)を知らず、業報(ごっぽう)(あき)らめず、三世(さんぜ)を知らず
善悪(ぜんあく)をわきまえざる邪見(じゃけん)党侶(ともがら)には(ぐん)すべからず



前回より「(ごう)」をテーマに修証義は展開されております。「業(カルマン)」は、“我々人間の行い”でした。

我々の生かされている人間世界では万物は関わり合いながら存在しています。また、我々一人一人の行いには必ず原因があり、それに応じて結果が生じます。青かった柿の実が熟して食べ頃になるように、善行には善果が訪れます。一度、柿の実を腐らせる要素が加わると柿は腐っていきますが、それと同じように、悪業には悪果が訪れるのです。それが、この世の道理です。それは、人間一人の力ではどうにもできないくらい大きな力を持っており、人間が簡単にコントロールすることはできません。

にも関わらず、我々人間はそうした「万物の関わり合い」や「因果関係の道理」を無視して、強引にコントロールしようとしてしまうのです。すなわち、何事も自分の思い通りに進めようとしてしまうのです。

仏教には「無明(むみょう)」という言葉があります。「明るさが無い」―すなわち、真実に暗いこと意味しています。我々が自分たちの生かされている人間社会の道理に暗いこと。そして、そんな人間社会で自分たちの苦しみを滅する方法を知ろうとしないことが「無明」なのです。我見(がけん)(自分の見方にとらわれたゆえの思い込みや執着)を捨てて、この世の道理を受け止ながら、苦しみを滅し、心穏やかに生きていく―それが「今の世に因果を知らず、業報を明らめず」を通じて、お釈迦様はもちろん、道元禅師様が訴えたかったことなのです。

次に「三世を知らず」とあります。「三世」とは「過去・現在・未来」のことです。自分の行いの結果は、自分だけではなく、来世に生きる人々にも影響を与えます。たとえば、人様のいのちを奪ったものは、自分はもちろん、家族や子孫までもが後ろ指を指されることがあります。もちろん、悪事を働いたのは本人なので、親が悪いから子も悪いと決めつけて、後ろ指を指すのは間違った考え方として慎まなければならないのですが、自分の行いは自分だけで完結するものではないことを十分に知っておかなければなりません。自分以外の人にも、時間の枠を超えて影響を及ぼすのです。

そうした我見を捨てて、物事をあるがままに受け止めていくことを(正見(しょうけん)する)といいます。正見はお釈迦様は生涯に渡ってお示しになった「八正道(はっしょうどう)」の最初に出てくる言葉ですが、私たちが「正しい見識を持って生きていくことの大切さ」を説いたものです。正しいというのは自分が歩む道を過去にその道を歩き切った先人たちの案内に従って外れずに進んでいくことです。仏教徒にとって、それは、お釈迦様のみ教えという案内に従うことであり、お釈迦様を指標として、自分たちの人生の道を歩んでいくのです。

それに対して、「無明」という言葉が指し示すような道理に暗く、道から外れるような生き方をしている人は「邪見」の持ち主です。僧伽(そうぎゃ)(サンガ)という目的を同じくした集団を大切にしながら日々の修行に励む仏教教団にとって、道から外れた見方しかできない者は集団の和や秩序を乱していくばかりか、誤った集団(邪見の党侶)を生み出していきます。

まずは「お釈迦様と同じ見識=正しい見識」を持てるように!
そして、「正しい見識」を持った党侶(仲間)を作るように!!