第12回「“布施”の目標」
これまで道元禅師様は「布施」というのは、モノを「貪らない(沸き起こる欲望を調整し、皆で分かち合う)」ことであり、人に対して「へつらわない」ことであると説いてまいりました。すなわち、道元禅師様はこの「布施」というみ教えを通じて、周囲の存在との関わり方を説いていらっしゃっているのです。その関わり方とは、万事のいのちを生かす「不殺生」の関わり方です。
そうした「布施」というみ教えを更に深めて解釈すべく、道元禅師様は我々凡夫が見た目の善し悪しや、量の多少など、物事の表面的な情報にとらわれやすいところを挙げ、そうした表面的な情報に左右されるのではなく、何事も本質を見抜くことが大切だとお示しになっていらっしゃいます。
周囲の存在に対して、「貪らない」、「へつらわない」という姿勢で、物事の本質を見抜いていくことができれば、“一句一偈”や“一銭一草”とあるように、どんなに些細な行いやちょっとした言葉がけであれ、ほんのわずかなモノであれ、それが相手を喜ばせることができるものならば、惜しみなく提示できることができるというのが、今回の一句が指し示す内容です。これは「布施」が目指す最終目標ともいうべきものでしょう。すなわち、相手を慈しみ、思いやる行為を施すことで、みんなが喜び、幸せに暮らしていくことが願われているのです。
本文中に「此生」「此世」という言葉が出てまいります。“この世”や“こちら岸”という意味で使われる「此岸」という言葉がありますが、それと同じように、今生(この世、今の世)を意味しています。それに対して、「他生」や「他世」という言葉が出てまいります。これは「此岸」に対して、「彼岸(御仏の世界)」であったり、あるいは、現世に対する来世や前世といったりした解釈も当てはまるのではないかという気がします。すなわち、周囲との関わりを大切にするが故に発せられた言葉や行動というのは、いつの世であれ、どんな場所であれ、周囲に喜びや幸せをもたらしてくれるということなのです。
それは、修証義第1章「總序」に登場する「