第15回 「布施の喜びに生きる ―檀家の役目、寺院の役目―

舟を置き、橋を渡すも布施の檀度(だんど)なり


大きな川が目の前を流れています。川の向こうには、自分たちを幸せにしてくれる楽園のような場所があるそうです。ところが、川を渡って、向こう岸の楽園に行こうにも、船があるわけでもなければ、橋が架かっているわけでもありません。また、大河ゆえに川幅も広く、とても泳いで渡ることさえできません。

そんな川を渡るには、当然ながら、誰かが「舟を置き、橋を渡す」必要性が出てきます。布施とは、たとえるならば、そうした大河に舟を置き、橋を架けるような行いであると、ここでは説かれます。

菩薩様という仏様は、大河のこちら岸(此岸(しがん)の現実世界に身を置いて、そこに住む人々に少しでも向こう岸(彼岸(ひがん)の悟りのみ教えをお伝えしようとする仏様です。まさに、「舟を置き、橋を渡す」ことを自らの役目とする仏様です。もっと申し上げるならば、此岸と彼岸を分けている大河をなくし、一体を彼岸の地にしていくのが菩薩様の役割とも言えるでしょう。

そうした菩薩様の役割が布施であり、言い換えれば、布施を行いとするのが菩薩様だということです。そうした菩薩様の行いをこの世に生きる我々一人ひとりが見習い、少しでも目指していくことを、仏教は願うのです。

そうした布施を意味する言葉として、今回は「檀度(だんど)」という言葉が出てきます。「檀」は「檀家」とか「檀信徒」という言葉に使われていますが、「ほどこし」を意味する言葉です。と言うことは、「檀家」や「檀信徒」というのは「ほどこしをする家」なり「ほどこしをする信者」ということになるわけですが、そうした「檀家」なり「檀信徒」の心からのほどこしによって、ほどこされる側が「度」(救う)されるというのが、「檀度」ということです。

今回の箇所では、「檀家の役目」、「寺院の役目」の双方が示されているように思います。これまで「布施の条件」が説かれていましたが、ほどこしをするとき、ほどこしという行為そのものが、ほどこす者の生きる喜びとなるように、また、ほどこしを受けるときには、どんなときも相手の行為に感謝の意を捧げることができるよう、施者・受者・やり取りされるモノや行為の三者が仏法に叶ったものになるようにしていくことが示されました。「檀家」と「寺院」、どちらかが常に施者か受者と役割が固定されるような、役目が強制されるのではなく、双方が施者と受者の役目を交換しながら、共に布施のみ教えに従って生きる喜びが味わえるようになりたいものです。