第19回 「長所・短所に向き合う 仏の言葉のキャッチボール“を!


徳あるは()むべし、徳なきは(あわ)れむべし



長所もあれば、短所もあるのが我々人間です。長所はいくらでも認めればいいのですが、短所に対しては、ついつい不快感を覚えてしまうのが、私たちのようです。また、相手の長所に対する周囲の評価が高ければ高いほど、嫉妬の念を燃やしてしまうこともあります。そこには、悲しいかな我々人間が誰しも有する「自分の好みだけでものごとの良し悪しを判断する」という(さが)が影響していることは否定できません。そして、私たちは、そんな性を持ったまま周囲の人々と関わっているのです。

そんな状況の中で生かされている我々が周囲の人々の長所・短所とどのように向き合っていけばいいのでしょうか?道元禅師様は「人間の長所(徳ある)は讃め、短所(得なき)は憐れむべし」と説きます。すなわち、「人々と接するとき、長所は誉めればいいが、短所は責めずに憐れみの目で捉え、残念に思うようにしてほしい」と言うのです。

修証義・第2章「懺悔滅罪(さんげめつざい)」の冒頭に「仏祖(あわれ)みの余り広大の慈門(じもん)を開き置けり」とあります。ここでは、悟りを得た仏祖がどうやって人間の短所に向き合っているかが示されています。仏祖は人間が無限の可能性など、種々のすばらしいものをたくさん持っているにもかかわらず、そうした自分たちが秘めたよさに気づくことなく、悪事を行うなどして道から外れていくことを嘆き、残念に感じていらっしゃるのです。すなわち、これが仏祖の人間の短所に対する向き合い方であり、まさに日常生活の中で「得なきは憐れむべし」を心がけている者の姿なのです。

それに対して、私たち凡夫は「徳なきは怒るべし」と言わんばかりに、人の短所を責め立ててしまうのです。

ここで、もし、自分の短所を周囲から責められたとして考えてみたいと思います。

相手の言い方にもよりますが、なかなか素直な気持ちで相手の苦言を受け入れることができないのではないかと思います。

それがもし、自分の短所に対して、周囲から残念に感じているという言葉を発されたり、悲しそうな顔をされたりすると、どうでしょう・・・?どこか申し訳ない気持ちになり、相手の指摘を受け入れ、がんばって短所を直していこうとするものなのです。

以前、ある人は感情的な怒りの言葉で人を責め立てるような会話を「言葉のドッチボール」と言いました。ドッチボールでは、結局、お互いに相手にボールを当てて痛い思いをさせるだけで、何の改善にもつながっていかないのです。

それに対して、愛語の会話は「言葉のキャッチボール」でありたいものです。こちらが投げたボールが仏の言葉になって、相手の心の中に飛び込んで行くと同時に、相手からは仏の言葉として、こちら側に返ってくるような「言葉のキャッチボール」が成り立つよう、「徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし」という姿勢を心がけていきたいものです。