第20回 「争いなき日常を目指して」


怨敵(おんてき)降伏(ごうぶく)し、君子を和睦(わぼく)ならしむること、愛語を根本とするなり


言葉の使い方というのは本当に難しいものです。御仏のみ教えに従い、正しく使えれば、「言葉のキャッチボール」になるのでしょうが、御仏のみ教えから外れ、使い方を誤れば「言葉のドッチボール」になってしまうからです。

人間の心の中というのは、多くは言葉によって相手に伝わっていくのではないかと思います。表情やしぐさで伝わることもあるかもしれませんが、表情やしぐさが必ずしもその人の心の中を表しているかといえば、そうとは言い切れません。たとえば、相手が笑顔で話を聞いているからといって、相手が自分に好意的に受け入れているかと言えば、必ずしもそうとは言い切れません、ひょっとしたら、心の中では怒りや憎しみを覚えながら、作り笑いをしているのかもしれません。また、相手が腕を組んで話を聞いているのを見たとき、「自分が腕を組んで話を聞くのは、イライラしているときだから、きっと相手もイライラしながら話を聞いているに違いない。」と思っても、そうとは限りません。もしかしたら、相手にとって腕を組んで話を聞くのは、真剣に考えながら人の話を聞くときのしぐさなのかもしれません。こちらが感じたことと相手が思っていることにズレがあるのが表情やしぐさの特徴なのです。それに対して、言葉は比較的、はっきりと心の中の様子を相手に伝えてくれます。その言葉が本音かどうかということもありますが、言葉は表情やしぐさ以上に、わかりやすく、伝わりやすい性質を持っています。

そういう面では、私たちのコミュニケーションの大半は、私たちにとって便利な言葉を使って営まれているのかもしれません。言うまでもなく、喧嘩腰な言い方は争いの原因となり、わかりにくい言い方は誤解を生み出します。私たちは、自分が発する言葉が相手の心を温め、日々を生きていく活力になっていくこともあれば、相手を苦しめたり、誤解させたりする可能性を有していることも知っておくべきでしょう。その上で言葉を発していくことが大切だということなのです。

もう一つは、言葉の根底にある私たち一人一人の心が常にきれいに調えられることで、言葉が愛語に変化していくということです。「怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり」が意味するのは、心を調えるという姿勢が根本にあるからこそ、人々に争いを避け、みんなで仲良く平和に過ごしていこうという気持ちが芽生え、愛語へとつながっていくということです。言葉の使い方を誤って、不要な争いを生み出さないように留意していきたいものです。