第23回「愛語能く“廻天(かいてん)の力”あり」


愛語()廻天(かいてん)の力あることを学すべきなり


ふと我が日常生活を振り返るにあたり、「会話」に焦点を当ててみたいと思います。

若かりし頃は、日常会話の中で、自分が発する言葉に対して、特段意識を働かせることがなかった私が、年齢を重ね、社会的な役職等を担わせていただく中で、他者と関わる機会が増えたり、あるいは、曹洞宗の布教の道を歩む中で、言葉というものを発していく中で、あることを考えるようになっていきました。それは「果たして、自分自身の言葉が相手のためになっているのだろうか」ということです。相手によかれと思って発した言葉が、本当に相手を喜ばせていたのだろうか・・・?逆に、相手がよかれと思って発してきた言葉に対して、その真意を慮らずに批判したりしていなかっただろうか・・・?我が人生を振り返りながら、相手に対して十分に思いを馳せることなく、“無意識のうちに”言葉を発していなかったことに気づかせていただき、以来、言葉を発するときには、よくよく考えて発するようにしているところです。


“無意識のうちに”というのが厄介だと思います。それは言葉を発する者が何か自分の考えを持っているなどして、相手の立場に立って考えるゆとりが十分にない場合に起こり得る状態なのでしょう。ですから、決して、悪気があるわけではないのですが、結果的には、相手に不快感を与えたり、前向きにやっていこうという気持ちを奪ったりしてしまうことになってしまうのです。そこが厄介なところです。

自分たちの日常会話を思い浮かべてみたとき、今、お話ししたようなことを避けていくためにも、常にみんなが幸せになることや、全体が最適な状態になることを心がけて言葉を発することの大切さを痛感いたします。不思議なもので、今までは何か一言、相手を批判するような言葉を発しなければならないと思っていたのが、「全体の最善を目指していこう」という気持ちで会話をしてみると、なぜか、物事がスムーズに進んだり、名案が生まれたりするのです。そんな会話(言葉遣い)こそが、「愛語の会話」なのです。それは「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」という、みんなが幸せになることが我が幸せであるということを踏まえ、それを会話の中で実践していくことなのです。

「愛語()廻天(かいてん)の力あることを学すべきなり」とは、そうした「愛語の会話」に込められた意味を私たち一人一人が十分に認識しておくことの大切さを訴えた一句です。たとえ、どんな困難な状況になろうとも、自分の感情に流されるのではなく、「愛語の会話」を意識することができるならば、状況が好転するというのです。“廻天”という言葉には、天下の状勢をが一変することや、衰えた勢いを盛り返すことができるという意味があります。全ては自分たちの意識の持ちよう次第です。そうして「愛語の会話」が実現できたとき、みんなにも自分にも最適な状況が訪れるのです。