第25回 「利行A ―“亀と雀の恩返し”―」
彼が
お釈迦様が最期に渾身の力を振り絞って、お弟子様たちに説かれたとされる「
こうした諂曲は本章冒頭の「
それに対して、自分だけが救われたいという気持ちを持たず、ただ「人が喜ぶことが自分の喜びとなる」と思って行動できる人は、口から出る言葉にしても、身体から生じる行動一つ見ても、「利行」になっているというのです。今回の一句に「催す」という言葉が出てまいります。トイレに行きたくなることを「催す」と言うことがあります。トイレに行くのは人間にとって生理現象です。つまり、自分でトイレを意識したときに行きたくなるというより、身体がトイレに行きたいというサインを発するから、人はトイレに行くのです。
そうした自然と催される生理現象のようなものが「利行」であり、今回は、古代中国の故事に登場する「窮亀」や「病雀」をたとえ話として引用し、「利行」を説いています。
ここで、少し「窮亀」と「病雀」のお話に触れておきたいと思います。
「窮亀」
窮地に陥った亀の話ということですが、
「病雀」
病気の
これらの故事に登場する孔愉にしろ楊宝にしろ、自らが救われることだけを願って、亀や雀を助けたわけではありません。ただただ目の前で困っている者を救いたいという一心で行ったことによって、自分たちも予想だにしていなかった朗報が起こったのです。
肝心なことは、やはり自分の利益だけを考えて行動しているでは、利行は成り立たないということです。まずは、相手が救われることを願って行動する。そして、それを自分の喜びとして捉えることができるようになる―これぞ、菩薩様の役割であり、そうした双方の心の働きによって、「利行」が成立するということを押さえておきたいものです。