第27回 「“ボランティア≠利行”」を意識して

利行は一法(いっぽう)なり、(あまね)自他(じた)を利するなり


―平成23年3月11日―「3・11大震災」が発生した年のことです。

震災発生後、全国各地から多くの人が駆け付け、瓦礫撤去等のボランティア活動に汗を流しました。その中には曹洞宗の僧侶もいました。亡くなった方々の読経供養始め、様々なボランティア活動に汗を流し、被災地の人々の苦悩に寄り添いました。当時、曹洞宗では、この未曽有の大震災を受けて、布教教化のテーマに「利行」のみ教えを掲げていたことが思い出されます。

その頃、ある曹洞宗の布教師講習会の中で参加者の法話実演が行われた際に、そうした自らの被災地でのボランティア活動の経験を基に「利行」のみ教えを説かんとする方が大勢いらっしゃったそうです。その背景には、曹洞宗の布教教化方針に沿った法話をしなくてはという思いもあったのでしょうが、多くが自らのボランティア活動が被災地の人々の救いになり、それが「利行」であるという展開の法話だったそうです。自分の体験談を基にした法話というのは説得力もあり、聞く側のとっても、わかりやすいものであることは確かです。

ところが、こうした法話に対して、あるベテラン布教師老師が異論を唱えました。老師は「ボランティア=利行」という捉え方は危険であるとおっしゃるのです。それを裏付けるのが、今回の一句です。「利行は一法なり」とあります。そのように言い切るには、相手にとってよかれと思って施した自分の行いが、本当に相手が喜ぶような行いになっていなければならないのです。すなわち、「自分は相手が喜ぶと思ってボランティアに汗を流したとしても、その行為によって、本当に相手を喜ばせなくてはならない」ということなのです。相手が何を感じたかまでに思いを馳せずに「ボランティア=利行」と捉えて法を説くことは、ボランティアをした者の「自己満足」で完結するかもしれないことに注意を払うべきです。場合によっては、「ボランティア=利行」という捉え方は、必ずしも「利行は一法なり。普く利他を利するなり」という道元禅師様のみ教えに合致した捉え方にはならないというのが、「利行」のみ教えをしっかりと捉えているベテラン布教師老師のおっしゃっていることなのです。

このお話が指し示すように、実は私たちが「相手の為にと思って行った親切」というのは、往々にして行為を施した者の自己満足で完結している場合が多いのです。自分はいいことをしたかもしれません。しかし、ひょっとしたら、それは自分の一方的な相手への思いの押しつけだったかもしれません。、相手は表面的には感謝の意を示していても、心の中ではそうは感じておらず、社交辞令で感謝の意を発しただけかもしれません。相手が本当に喜んでいたかどうかははっきりとはわからないのです。そう考えてみると、相手のために行動するというのは、本当に難しいことだと思います。「ボランティア=利行」と説くのならば、本当に相手が救われ、それによって自分自身も喜びを感じ、人間として成長できたと言えるかどうか・・・?話し手である布教師自身の行為が自己満足で完結していないかどうか・・・?そうした観点が利行というみ教えを捉えていく上で大切だということです。

『自分の行為によって、相手が喜んでくれる』とか、『まわりの人が喜ぶことが自分自身の幸せであり、喜びであると感じることができる』というのが「普く自他を利するなり」ということです。「普く」というのは「普遍」の「普」です。すなわち、どんな人にも当てはまるということです。自分の行いに酔いしれて、自己満足で終わるのではなく、それを受け取った相手がどう捉え、まわりにどう喜んでいただくかというところまで考えながら、言葉や行動を発していきたいものです。