第28回 「同事(どうじ) ―相手に“なりきる”―」


同事(どうじ)というは、不違(ふい)なり
()にも不違(ふい)なり()にも不違なり


お釈迦様のお悟りとは、自分という存在が周囲の様々ないのちとつながり、関わり合い、支え合って生かされていることにお気づきになったということでした。それが「衆縁和合(しゅうえんわごう)」と呼ばれるものです。ヒトもモノも大自然も全てのいのちが「衆縁和合」しているがゆえに、仲良く和合すると同時に、お互いに相手の身になって、労わり合いながら共存していくことが大切です。それを説いているのが仏教という、「衆縁和合」を体得されたお釈迦様のみ教えなのです。

とは言え、常に相手の立場に立つことができるかと言えば、なかなかそうはいかないかもしれません。しかし、自分の中に少しでも「衆縁和合」を意識し、相手の身になることを念じ込んで日々を過ごしていくうちに、そうした感情が芽生えてくるように思います。そんな我々人間にとって、性別や年齢等の見た目の情報で相手を分け隔てすることなく、相手を好きになる≠アとが始まりではないかという気がします。

今回より道元禅師様がお示しになられる「同事」というみ教えは、「四枚(しまい)般若(はんにゃ)」の最後に示されるみ教えです。“同じ”“事”というわけですから、先に申し上げた自分が周りに同化すること≠キなわち、「相手になりきる」ことです。「不違」というのも「違わない」ということですから、「同じ」ということです。

それは、あたかも自分とは全く異なるいのちに対し、さも自分と接するような思いで関わっていくということなのです。「自にも不違なり」とあるように、自分自身は皆が救われるような行いを心がける人間に“なりきる”のです。そして、「他にも不違なり」とあるように、相手に“なりきる”ということですから、あたかも役者が与えられた役になりきって、徹底的に演じるように、周囲のいのちと関わっていくのです。それが「同事」なのです。

常に相手の立場に立って、相手になりきるということは、決して、容易なことではありませんが、少しでも相手に同化し、相手の身になって行動しようという心掛けをもっていくことで、相手も自分も救われ、お互いに生きる喜びが実感できるようになるのです。そうした「同事」を、少しでもいいから日常生活の中で取り組んでいきたいものです。

ちなみに、これまで説かれてきた「布施(ふせ)」、「愛語(あいご)」、「利行(りぎょう)」の根底には、相手を思いやり、相手の身になって行動しようとする「同事」のみ教えが流れていることを押さえておきたいものです。実は「四枚の般若」は、個別に存在しているのではなく、一本の串で貫かれた4色のお団子の如き存在です。まさに「衆縁和合」しているみ教えなのです。