第31回 「海の水を辞せざるは、同事なり

海の水を辞せざるは、同事(どうじ)なり。
是故(このゆえ)()く水(あつま)
りて海となるなり

高源院の本寺様であります石川県・羽咋(はくい)市の永光寺(ようこうじ)様にお伺いする際、「のと里山海道(さとやまかいどう)」を通ります。金沢―穴水(あなみず)・輪島間を結ぶ約80qの自動車専用道路の金沢・羽咋(はくい)間は海に面しており、眼界に広がる海の鮮やかさが眩しいくらいに眼に飛び込んできます。

そんな海を見ながら、ふっと思い出すのが、今回の一句です。これは管子にも取り上げられている海の性質≠ノもあるように、「海は集ってきた水が汚水であろうが赤や黒の色がついた水であろうが関係なく、どんな水も分け隔てなく受け入れる性質がある。だから、水が集まってきて、海ができるのである。」ということを説いています。きれいな水を好み、自分と同じような水ばかりを受け入れ、自分とは違った水を除外するような、「水を差別」していては、海にはなりません。海がどんな水も差別せず、拒まないで受け入れるように、周囲のいのちと関わっていくのが「同事」なのです。

千里浜海岸(H26.3.15撮影)

人間はどうしても、自分の価値観や好みで周囲のいのちを分別して捉えてしまうところがあります。自分と考え方や価値観、趣味などが同じなら受け入れるのですが、自分と違えば避けるなどしてしまいます。そうした分別は差別につながります。そのことを踏まえ、海の如き広大な器を持った人間を目指していきたいものです。

実際に海と人間では、頭脳や心の有無による違いがあるのは否めませんが、前出の管子には名君は海の如く、周囲のどんないのちも拒まずに受け入れることができると示されています。そうした広大な器を持った名君のような人間になることを、同事のみ教えを通じて目指していきたいものです。

世の中にはいろんな人がいます。それゆえ、自分にとって苦手と感じる人間もいることでしょう。しかしながら、イヤだからと避けてばかりいられません。避け続けることは苦悩を深めるばかりで、何の解決にもなりません。毎日が辛いだけです。そうした苦悩に出会ったならば、「海の水を辞せざるは、同事なり」の一句を思い起こし、苦手と感じる人とも関わっていけたらと思うのです。