第2回  「洗心(せんしん)


常に自分を点検し、心をきれいにしておく


今回は「洗心」という禅語を勉強させていただきましょう。文字から推察すれば、「心を洗う」ということですが、反省だとか自分を見つめなおすとか、日常の中で「自己の点検を怠らないようにする」ということです。掃除を怠れば部屋が汚れていくように、人間の心も手入れを怠れば、汚れていくものです。

学生時代、私は、この「洗心」を痛感する出来事がありました。

当時、富山大学の教育学部に在籍し、教員を目指していた私は、教育実習先の小学校で担当していた子どもたちの純粋な心に触れ、自分の心の汚れに気づき、忘れていたものを思い出すきっかけを与えていただきました。それは、ひたむきに努力することだとか、素直な心で人と接するというような、人間が生きていく上で欠かすことのできないものばかりでした。そんな大切なことを忘れ、字をきれいに書こうとしなかったり、なすべきことの手を抜いたりしていた自分を、私は子どもたちから逆に指摘され、心を洗ってもらったという、そんな教育実習生だったのです。教育実習に通わせていただいたあの日から、20年近く経とうとしています。私の心を洗ってくれた当時の子どもたちは今、社会の第一線で活躍していることでしょう。そんな彼らに対する感謝の気持ちは今も忘れることができません。

大乗仏教では、「仏性(ぶっしょう)」と申しまして、誰もが生まれながらにして純粋な心を有していると説きます。最初は汚れなき純白だった仏性も、当の本人も気づかぬうちに汚れていきます。そんな汚れに自ら気づき(セルフチェックする)、掃除をして、きれいにする習慣を作りたいものです。

では、どうすれば、我々は自らの仏性の汚れに気づき、掃除していけるのでしょうか。それは、日頃から善行に励むようにするということです。他を思いやる、他に感謝する。他人の指摘は素直に受け入れ、改善していく・・・などなど。「悪を断ち、善を修する」という、仏戒のみ教えに従って日々を過ごす中で、私たちの仏性は磨かれ、きれいになっていくのです。(仏戒については、修証義第3章・第17回、第18回をご参照ください)

とは言え、長年、溜まってしまった心の汚れは、簡単には落としきれないかもしれません。それでも、諦めずにやっていきたいものです。それがお釈迦様がお示しになっている「精進」です。悪行を慎み、善行を積み重ね、悟りを得た仏に近づくことです。あたかも、泥水を何度もふるいにかけていけば、きれいな水になるように、仏性も何度も何度も洗っていくうちに、自然と元の純粋な心が蘇ってきます。地道で根気のいる作業ですが、今、洗浄し始めた心が、一年後には、きれいになっているはずです。そして、もしかすると、一年後の世界には、今の自分とは違った自分がいるかもしれません。それは、私たち次第なのです。