第3回 「お釈迦様に(まみ)えた幸せ」


見釈迦牟尼仏(けんしゃかむにぶつ)と喜ばざらんや


―私たち人間とって、一体、何が本当の“幸せ”であり、“喜び”なのでしょうか?―
ある研修会で、講師より「あなたが幸せを感じるのはどんなときですか?」という問いかけがなされ、一人一人が回答しました。ある者は飲酒しているときと答え、また、別のある者は撮り溜めしたテレビ番組を見るときだと言いました。その他、入浴時や睡眠時であったりと、幸せや喜びは、人によって様々であり、100人いれば100人の幸せがあることを感じるのです。

―そうした一般的な幸せや喜びに対して、「仏教における幸せや喜び」とは何なのでしょうか?―
この問いに対する答えが今回の一句です。道元禅師様は「見釈迦牟尼仏と喜ばざらんや」とおっしゃっています。すなわち、お釈迦様にお会いできたことが何よりもの幸せであり、喜びであるというのです。

一般的に、“見”には、「目で見る」という意味で使われますが、その他に「目上の人にお目にかかる、お会いする」という意味もあります。「見釈迦牟尼仏」の「見」は、後者の意で解釈すべきでしょう。仏教徒にとって、目標とすべき師であるお釈迦様にお会いできたことに対する幸せや喜びという捉え方です。

私たちと同じように「娑婆」という様々な苦悩を受け止めることが求められる世界にいのちをいただき、生かされてきたお釈迦様は、どうすれば娑婆において心安らかに生きていけるかを、坐禅修行によって悟られました。そんなお釈迦様は、言わば、娑婆世界に生きる人々の師です。そんな師にお会いし、そのみ教えに従っていけば、私たちは間違いなく苦悩から救われるわけで、お釈迦様に見えることは、娑婆世界に生かせれている我々にとって、最高の幸せであり、何よりもの喜びだというのです。

ところが、私たちの多くは、自らの中に存在する欲望をコントロールを不得手とします。そのため、お釈迦様ではなく、我が身を滅ぼしかねないような危険な存在に魅力を感じ、それに近づこうとしてしまうことがあります。お釈迦様の最期のみ教えの一つに「少欲(しょうよく)」とあります。これは、沸き起こってくる欲望と上手にお付き合いをしていくことを説いたみ教えです。すなわち、我が身を滅ぼしたり、周囲に苦悩を与えたりするような欲望ならば自分の中で調整して表出させない。逆に、自他共に喜び、仏のお悟りに近づけるような欲望ならば、どんどん発揮していく。そうした欲望との関わり方を心がけていくのが「少欲」なのです。

「少欲」を意識しながら、本当の幸せとは何かをよくよく考えてみたいものです。そうすると、自ずとお釈迦様とご縁をいただけたことへの喜びが感じられることでしょう。そうやって、お釈迦様のみ教えに従い、我が身心を調えながら、毎日を過ごしていくことを願うばかりです。