第10回「中道(ちゅうどう) −「両面の存在」に気づく−


草木(そうもく)斬伐(ざんばつ)し、土を(たがや)し地を堀り、
湯薬
(とうやく)
合和(ごうわ)吉凶(きっく)占相(せんそう)星宿(しょうしゅく)仰観(ごうかん)
盈虚
(ようこ)
推歩(すいほ)暦数算計(りゃくしゅさんけ)することを得ざれ



物事には必ず両面があります。いいところもあれば、悪いところもあります。優れた部分もあれば、劣った部分もあります。万事が両面を有した存在なのです。そのことに気づくことなく、片面のみを見て、あれこれ判断したり、決め付けたりする“偏った見方”を慎み、両面の存在を知り、ありのままに両方を見て、総合的に判断していくことが、お釈迦様がお示しなった「中道(ちゅうどう)」というみ教えです。

「中道」を日常生活の中で実践していく上で大切なのは、“ほどほどにする”ということです。すなわち、“やりすぎない”ということです。自分の好みに捉われ、好きな方(片面のみ)を見ていれば、嫌いな方に価値を見出すことができません。その結果、好きな方ばかり見てしまい、「やりすぎ」につながっていくのです。それでは物事の真価に触れることはできません。

両面の存在に気づくというのは、双方の価値に気づき、それを受け止めていくということなのです。もし、それができれば、相手に対する好悪の念がなくなり、これまでのような自分の好みだけで相手を判断する視点を超えて、相手の絶対的な価値に巡り会うことができるのです。

こうしたものの見方、周囲との関わり方を日常の中で実践できている人は大勢いらっしゃいます。当然ながら、彼らの人生は充実した豊かなものに違いありません。誰しも後悔しない、いい人生を送っていきたいという願いを持っているはずです。それならば、こうしたお釈迦様がお示しになっている「中道」という“ほどほど”で“やりすぎない”道を歩んで見る価値はあると思います。

そんな「中道」という視点から、「浄戒を持つ」とはどういうことなのかという問いに対して、私たちの日常生活の様々な場面に照らし合わせながら、お釈迦様が説いていらっしゃるのが今回の一句です。草木の斬伐、田畑の開墾や地面を掘ること、無益な薬品の調合(湯薬を合和)、やみくもに占いをしてみたり、星座を信仰すること(吉凶を占相し星宿を仰観)、月の満ち欠けを見ながら暦を作ること(盈虚を推歩し暦数算計すること)、そうした行為が行き過ぎないようにしていくことが「浄戒を持つ」ことであるとお釈迦様はおっしゃるのです。

お釈迦様は決して、何も畑仕事や薬品製造等の業種そのものは批判していません。私たち人間の身心を育む食を生産する田畑において、私たちに有害なものを生産して人々を惑わすようなことをしない。人間の健康を維持し、病を回復させるはずの薬を人のいのちを奪うようなことに使ったりしない。また、そんな薬品を製造しない。そうした道から外れた誤った関わり方をしてはならないとおっしゃっているのです。すなわち、度を超えるようなことにならない程度にという、ごくごく当たり前のことをお釈迦様はおっしゃっているのです。

ところが、中々、自分をコントロールできず、度を越えてしまうのが私たち人間なのです。お釈迦様がお亡くなりになって約2500年−人間は今も昔も変わらないのでしょう。だからこそ、お釈迦様のみ教えがあるわけで、私たちはそのみ教えをいただきながら、自分で自分を制御しながら日々を過ごすことが大切になってくるのです。