第7回「相承―仏祖の慈恩に向き合う―」
今の見仏聞法は、仏祖面々の行持より来れる慈恩なり
道元禅師様は、今回の一句において、「仏や正法とともに生きる」ということを、「見仏聞法という言葉を用いて表現なさっています。「見仏」には、“仏様にお会いする”とか、“仏縁を結ぶ”ということは勿論ですが、“自己の中に存在する仏性に気づく”という意味もあります。その気づき(悟り)のよって、凡夫だった自分が仏に近づき、仏と一体化していくのです。
こうした見仏聞報を可能にするのが、「仏祖面々の行持」です。これは、いつの時代も、どんな場所にも、仏道修行によって、お釈迦様のお悟りに近づいてきた祖師方や古聖が存在し、その中で教えが受け継がれてきたということです。行持とは、「行を持つ」とあります。すなわち、仏様のみ教えに従い、仏様のお悟りに近づくことです。そうした行持を生涯に渡って続けてこられた祖師方のお力によって、私たちが見仏聞法という仏縁をいただけたことは「慈恩(喜び感謝すべき御恩)」であると、道元禅師様はお示しになっているのです。
平成27年(2015年)、大本山總持寺二世・峨山韶碩禅師様の六五〇回忌・大遠忌が厳修されました。大本山總持寺では、この六五〇回忌法要を厳修するに当たり、「相承」というテーマを掲げました。「相承」とは、弟子が師匠から教えなり技術を全て伝授してもらうことです。たとえてみるならば、コップ一杯の水があったならば、そのまま次のコップに水を一滴も漏らさずに移すことです。たとえ、水を赤くしたいと思って、赤いインクを混ぜたくても、混ぜることは許されません。甘い味をつけてみたいと思って、砂糖を混ぜることもNGです。そうした自分の好みの色や味わいといった、「自分の考え」を混ぜ込むようなことをするのではなく、受け継いだものを、そのまま味わい、次に受け継いでいくことが「相承」なのです。
お釈迦様から伝わるみ教えは、ほとんど形を変えることなく、今日まで伝わってきているわけですが、それを可能としてきたのが「相承」です。師匠と弟子がお互いを心の底から信頼する姿、すなわち、仏様に深く帰依し、信仰するように、師を絶対の存在と仰ぐ弟子と、弟子こそが脈々と法を伝える器を有した存在と信じる師という、双方の信頼関係によって、今日まで仏法が「相承」されてきたからこそのものなのです。
そのおかげさまで、私たちは悩み苦しみ尽きぬ「娑婆」において、仏のみ教えに救われると共に、仏・正法とともに生きることができます。そんな私たちに仏教を伝えてくれた先人の方々の慈恩に向き合うとき、次は私たちが自らの実践によって、仏法を後世に伝える立場にあることは言うまでもありません。そして、そうした私たちの生き様が、次世代の人々が安心して過ごせる娑婆世界の提供へとつながっていくのです。そのことを踏まえ、「仏や正法と共に生きる」毎日を過ごすことを願うのです。